追試から逃げた午後
追試開始の十分前、僕は屋上へ逃げた。
数学の追試に落ちれば夏休みの補習が増える。分かっている。それでも答案用紙を前にするより、立入禁止の札を無視するほうが簡単だった。
給水塔の影に座ると、誰かの靴が見えた。
「見つけた」
学級委員が腕を組んで立っていた。先生に頼まれて探しに来たらしい。片手には僕の筆箱、もう片方には問題集。
「連行?」
「その予定」
「五分だけ」
「もう七分しかない」
彼女はため息をつき、隣に座った。
僕は数学が嫌いなのではない。最初の小テストでひどい点を取り、クラスで笑われてから、問題を見るだけで手が止まるようになった。家では解ける。黒板の前や試験になると、数字が知らない記号に見える。
「また白紙にすると思う」
「まだ受けてもいないのに」
「受けたら分かる」
僕はフェンスの向こうを見た。校庭では野球部が整列している。失敗しても、次の球が来る。答案は一度書けば赤で残る。
彼女は問題集を開いた。
「この二次関数、頂点どこ」
「追試の問題?」
「似てるだけ」
「教えたら不正じゃない?」
「逃げた人が急に倫理的」
僕は鉛筆を受け取り、問題集の余白に式を書いた。風でページがめくれそうになり、彼女が手のひらで押さえた。教室では解けなかった問題が、屋上では解けた。
「ほら」
「今は点数つかないから」
「じゃあ、追試を屋上で受ければ」
「先生が許すわけない」
「聞いてみる」
彼女は立ち上がった。
「待って、本気?」
「逃げるよりまし」
結局、追試は空き教室で受けることになった。窓を開け、彼女が廊下側の席に座る条件付きで。監督の先生は「前例がない」と何度も言ったが、開始時刻を十五分遅らせてくれた。
答案を受け取った瞬間、やはり数字がぼやけた。
そのとき窓から風が入り、紙の端を持ち上げた。屋上の問題集を押さえていた彼女の手を思い出した。
僕は答案の左上に、小さく「ここは屋上」と書いた。誰にも見せないため、すぐ消した。
追試はぎりぎり合格だった。
放課後、彼女に報告すると、「相談料」と手を出された。
「何」
「屋上の鍵」
「持ってない」
「じゃあ次の追試まで、借り」
「次がある前提?」
笑われたのが悔しくて、僕は問題集を開いた。
僕らは非常階段の踊り場で夏休みの宿題を始めた。サボるために見つけた場所が、いちばん勉強できる場所になるとは思わなかった。