退院前の手すり

琢磨と晴久は、母の退院までに廊下へ手すりを付けなければならなかった。

母が再婚したのは二人が成人してからで、互いを兄弟と呼んだことはない。琢磨は遠方勤務、晴久は実家近く。母が転倒して入院してから、連絡は病院の報告と費用の分担だけだった。

ホームセンターで買った手すりは二メートル。取り付け位置を巡って、開始五分で揉めた。

「高さ八十センチ」

「病院は七十五だった」

「母さん、靴履かないだろ」

「だから低い方がいい」

「測ったのか」

「毎日見てる」

その一言に、琢磨は黙った。自分は月に一度しか見舞っていない。

二人で壁の下地を探した。センサーが反応する位置へ鉛筆で印をつけ、水平器を当てる。晴久がドリルを使い、琢磨が手すりを支えた。最初のネジは途中で空回りした。

「下地ないぞ」

「おまえの印だ」

「センサーが」

「機械のせいにするな」

穴を一つ余計に開けた。壁紙の白に黒い点が残る。晴久は補修材を取りに行き、琢磨は一人で手すりを支え続けた。腕が痺れた頃、晴久が戻り、何も言わず下から支えた。

取り付けが終わると、二人で何度も体重を掛けた。ぐらつかない。高さは間を取って七十八センチになった。

「中途半端」と晴久が言う。

「二人で決めた結果だ」

「決めたというか、折れただけ」

「同じだろ」

台所で遅い昼を食べた。晴久が買ってきた弁当は、琢磨の分だけ魚だった。肉を控えていることを、母から聞いたらしい。

「退院後、朝は俺が来る」と晴久が言った。

「夜は?」

「仕事ある」

「俺、今月だけ在宅に変えた」

「実家で?」

「回線が生きてれば」

晴久は驚いた顔をしたが、礼は言わなかった。代わりに玄関の鍵を一本外し、テーブルへ置いた。

「これ、母さんの予備」

「おまえのは」

「持ってる」

「じゃあ借りる」

琢磨は鍵を受け取った。穴を隠す補修材は少し色が違い、近くで見ると分かる。晴久は直そうとしたが、琢磨が止めた。

「手すりが落ちなきゃいい」

「見栄え悪い」

「次に壁紙替えるときやる」

退院の日、母は二人に挟まれて廊下を歩いた。手すりを使いながら、穴の跡に気づいて笑った。琢磨と晴久はどちらも言い訳をしなかった。

夜、琢磨が二階の元客間でパソコンを開くと、机の引き出しに延長コードと予備の電球が入っていた。晴久が先に置いたものだった。鍵はその横ではなく、琢磨の財布に残ったままだった。