逆さにしても香る小箱
飛空船《蒼鯨》では、液体香水の持ち込みが禁じられていた。
揺れで瓶が割れれば衣装を汚し、酒精の強い香水は機関炉の火へ近づけられない。そのため上流客は長旅の終わりに汗臭いまま舞踏会へ向かい、船会社には苦情が百件以上届いていた。
香料店の売れ残り係エルネは、前世で携帯化粧品を企画していた。彼女は香水を瓶へ戻さず、蜜蝋と柔らかな油へ香りを閉じ込め、小さな平缶へ流した。冷めると、指で撫でられる固形香水になった。
「香りを蝋燭にしただけだ」
船会社の検査官は缶を逆さにし、床へ落とし、暖房管の横へ置いた。蓋を開けても一滴もこぼれない。表面が少し柔らかくなっても、缶から流れ出さなかった。
エルネが手首へ薄く塗ると、体温で白花の香りが立った。液体のように船室全体を占領せず、腕を近づけた相手にだけ届く。
検査官は持続しないと決めつけた。エルネは出航前に塗った客室係三人を呼ぶ。四刻の清掃後でも、手首には淡い香りが残っていた。制服にも染みはなく、香水瓶のような割れ物札もいらない。
試験航海で二十人の乗客へ配ると、使用量は一人ひと撫で。缶一つで五十回以上使えた。揺れの強い雲海を越えても荷物の被害はゼロ。到着港では、乗客たちがそのまま歓迎舞踏会へ向かった。
従来の香水商は「貴族は金の瓶を欲しがる」と笑った。だが船会社の予約窓口には、次便の客から固形香水を座席と一緒に買いたいという札が積まれた。半日で三百二十個だった。
別の試験では、平缶を白い絹衣装と同じ箱へ入れ、船を急旋回させた。従来瓶は栓から香水が染み、絹を一枚駄目にした。平缶側は蓋の内側さえ乾いたまま。荷物係は破損補償の見積もりから金貨四百枚を消した。
船長は液体香水の没収箱を閉じ、エルネの平缶へ安全証を貼った。検査官も自分の胸元へひと撫でし、提出済みの不合格票を破った。出航鐘が鳴る前に、一等客室の売店から追加注文が届く。
「全船室へ三千個。船内香粧品の専属契約は君に渡す」