避難経路の買い手
防災アプリの位置情報利用会議で、鞍馬田奏太は市から運用を委託された会社の若手担当として、実証訓練のデータを確認していた。買い手は大型商業施設の運営会社。避難時の人流を店舗配置へ生かしたいという。
市との契約では、個人を識別できない百メートル単位のヒートマップだけを二次利用できる。売却額は一億円だった。
奏太は受領ログを開いた。商業施設がデータをダウンロードしたのは訓練当日午前十時十二分。訓練終了は十時三十分。集計プログラムが動いたのは十一時五分だった。
「ヒートマップになる前に渡しています」
運用会社の部長は、途中経過の確認用だと答えた。
提供ファイルには端末広告ID、緯度経度、小学校名、家族人数が一秒単位で残っていた。避難所へ向かわず、自宅に留まった高齢者や、支援が必要な世帯まで分かる。
市の二次利用承認書も添付されていた。奏太は印影を見て、庁内の別文書を開いた。承認書の市章には右下の欠けがあり、先月の進捗報告書の印影と完全に一致する。画像を切り抜いて貼ったものだった。裏面に朱肉もない。
さらに承認時刻は午前十時二十分。市の担当課長はその時刻、訓練本部から無線指示を出しており、電子決裁へログインしていなかった。
部長は、商業施設が地域防災へ協力する見返りだと主張した。
奏太は市契約の利用目的欄を示した。
「避難する人は、売場へ向かっているのではありません」
市職員がその場で承認書の無効を確認し、データ回収を命じた。運用会社社長の契約印は動かなかった。
提供ファイルには、避難に時間を要した車椅子利用者の端末も残っていた。商業施設の企画書では、その経路を「平日昼間の高齢顧客動線」として店舗誘導に使う予定だった。奏太は、支援が必要な場所を売場の候補へ変えることは防災協力ではないと告げた。
十時十二分に売られた避難経路が、一億円の買い手へ人々の家を案内する決裁を止めた。