針のない午後

午後三時、縫製工場の音が一斉に止まった。

桐生院澄人は生産管理表を閉じ、ミシンの列を歩いた。縫い子たちは糸を切り、針を外し、一本ずつ小箱へ納めている。未完成の服は仕様書どおりに保護し、発注元へ返却する準備まで済ませていた。

宗像皓太社長は二階の窓から怒鳴った。

「納期前に手を止めるな。代わりの内職を百人集めるぞ」

澄人は退職届を差し出した。四十八人分あった。

宗像は、高級ブランドの難しい縫製を現場の腕で支えながら、賃金は最低限に抑えた。やり直しを命じる時間は無給、休憩中の検針も「自主点検」。それでも商談では、自社独自の技術だと胸を張った。

その日、発注元ブランドの責任者が完成品検査に来ていた。宗像は縫い子を指さす。

「少し反抗的でして。来週には総入れ替えします」

責任者は服の裏側をめくった。見えない場所の縫い目が、寸分違わずそろっている。

「入れ替える必要はありません。契約先を替えます」

机に置かれた新規発注書の相手は、澄人たちが設立した工房だった。ブランド側は閉鎖予定の別工場を買い取り、設備を提供するという。

宗像は笑おうとした。

「ブランド名を使って引き抜く気か」

「技術を持っている人へ、仕事を戻すだけです」

そこへ労働基準監督署の職員が入った。表向きのタイムカードとは別に、出来高管理システムへ秒単位の作業記録が残っていた。宗像が消した残業時間は、ブランド側の品質追跡データからも再現できた。

取引銀行は、主力契約の解除と賃金請求を理由に融資枠を停止した。工場の土地もミシンも担保に入っている。宗像は澄人へ声を潜めた。

「工場長にする。給料も倍だ」

澄人は針の小箱を受け取った。

「倍にする相手を、昨日まで使い捨てと呼んでいましたね」

責任者が新工房への初年度発注額を読み上げる。それは旧工場の年間売上を上回っていた。

四十八個の小箱が運び出された瞬間、宗像の工場にはミシンが百台残り、服を完成させられる針は一本も残らなかった。