鍵を返す設計室
共同設計室の返却時刻は、午後十時だった。
初音が模型を箱へ戻していると、皓は机の図面を片づけながら時計ばかり見ていた。明日は一級建築士試験の申込締切。郵便局の夜間窓口へ行くなら、あと二十分で出なければならない。
「先に帰って」
「模型が終わってない」
「私がやる」
「また徹夜する気?」
皓はこの半年、初音の設計変更を手伝い、試験勉強を何度も後回しにした。好きだと言えない理由は、それだった。告げれば彼はまた、自分を優先する。愛される代わりに彼の未来を削る関係にはなりたくなかった。
初音がコンペ前に熱を出した週、皓は三日分の勉強時間を模型制作へ回した。合格者発表の日、彼は「受けてないから落ちてもいない」と笑った。その軽さが初音には重かった。彼の机には、開き癖のついた法令集と未使用の受験票用写真がある。初音は何度も「次は自分を優先して」と言ったが、彼はそのたび「次はね」と答えた。好きだと伝えれば、その〈次〉が永遠に来ない気がした。模型の窓には小さな明かりが仕込まれ、消灯した設計室でも、二人が作った建物だけは淡く光っていた。
「申込書、出した?」
「今年は見送る」
「先に帰って」
二度目は命令になった。
「初音を置いて?」
「置いていい」
「よくない」
「私のために受けないほうが、もっとよくない」
管理会社から、施錠まで十分との電話が入る。
初音は模型の土台を閉じ、設計室の鍵を外した。皓の鞄から申込封筒が覗いている。宛名も切手も済んでいた。
「本当は受けたいんでしょ」
「来年でもいい」
「来年、私がいない保証はない」
「いてほしいよ」
胸が跳ねた。それでも初音は鍵を握りしめる。
「先に行って」
三度目だけ、意味を変えた。
「私より先に、自分の行きたい場所へ。追いつくかどうかは、私が決める」
施錠ベルが鳴る。初音は模型箱を管理人へ預け、鍵を返却箱へ入れた。
皓の申込封筒を持ってエレベーターへ走り、夜間郵便局までのタクシーを二人分呼んだ。