鏡のない洗面所

久住珠璃が借りた部屋には、鏡が一枚もなかった。

不便なので洗面所へ卓上鏡を置くと、そこには珠璃ではなく、母が望む娘の顔が映った。長い髪、薄い化粧、控えめな笑顔。

会社から電話が来たあとは、上司が好む顔になった。疲れを見せず、何でも引き受けそうな目。恋人からメッセージが届けば、今度は相手が好きだと言った短い髪になる。

翌週に転職面接を控えた珠璃は、どの顔で行けばいいか分からなくなった。

〈鏡堂不動産〉の鏡堂玲央は、左目へひびの入った片眼鏡をかけていた。鏡を黒い布で覆いながら言う。

「鏡は、備品ではありません」

「自分で買いました」

「値札の話ではなく、決定権の話です」

玲央が片眼鏡越しに卓上鏡を見ると、表面へ何人もの珠璃が重なった。母の娘、会社の部下、恋人の恋人。どれも珠璃なのに、本人だけがいない。

「この部屋は、いちばん近くであなたを見ている他人の期待を映します」

「本当の私を映す方法は?」

「『本当』を一枚に決めると、また鏡へ仕事を渡します」

珠璃は面接で、感じよく、頼りになり、長く働ける人に見せたかった。前の会社では、それを演じ続けて断れない仕事が増えた。今度こそ失敗したくない。

「どんな顔なら採用されますか」

「面接官に訊いてください」

「会う前だから困ってるんです」

「では、採用される顔ではなく、採用後も続けられる顔を選んでください」

玲央は洗面所の照明を消し、窓のカーテンを開けた。夜のガラスに、化粧の薄い珠璃がぼんやり映る。鮮明ではない。母の好みも上司の評価も読み取れない。ただ、疲れている自分の目だけは分かった。

玲央は黒い布を半分に切り、一枚を鏡へ、一枚を珠璃へ渡した。

「面接まで、見たくない期待が映ったら隠してください。鏡を割る必要はありません」

珠璃は翌朝、髪を切らず、無理に笑わず面接へ行った。残業時間と担当範囲を質問し、前職を辞めた理由も濁さなかった。採用の返事はまだない。それでも帰宅後、卓上鏡には珠璃自身の顔が一つだけ映った。

玲央が確認に来ると、珠璃はひび割れた片眼鏡を指した。

「それも鏡ですよね」

「ええ」

「何が映るんですか」

玲央は片眼鏡を外し、黒い布で包んだ。

「鏡は、備品ではありません」

「またそれ」

彼は鏡の空いた洗面所を珠璃へ返すように、一歩下がった。

「見たい自分を決めた人だけが、置いていいものです」