鏡の右端
妹は、前髪の右側だけ切ってほしいと言った。
「目に入るから、五ミリくらい」
芳賀芙美は、病室へ持ってきた美容師用のはさみを膝に置いた。妹の髪は薬の影響で薄くなっていたが、額の右端だけ、細い束が目の上まで伸びている。
「全体をそろえようか」
「右だけでいい」
「変になるよ」
「もう変だから平気」
妹は鏡を見ながら言った。泣かせようとしたのではなく、本当に鏡の中の左右差を気にしている顔だった。
明日の朝まで持つか分からないと医師に言われた直後、妹が頼んだのが散髪だった。芙美はもっと別の言葉を待っていた。預金通帳の場所や、両親への伝言や、子どものころの謝罪。けれど妹は前髪を指でつまみ、右だけ、と繰り返した。
姉妹が最後に髪のことでけんかしたのは、中学の卒業式の朝だった。芙美が勝手に切った妹の前髪は短くなりすぎ、集合写真でずっと眉を隠していた。妹はその写真を捨てず、会うたび「三ミリは信用しない」と笑った。
芙美はベッドを少し起こし、首の周りへ白いタオルを巻いた。看護師が床に新聞紙を敷いてくれた。妹は鏡を正面に持ち、顎をわずかに上げる。
細い髪を櫛でとかす。乾燥して静電気が起き、何本かが額に貼りついた。芙美は霧吹きを使おうとしたが、妹が冷たいから嫌だと言う。指先を水で濡らし、右端の束だけをそろえた。
美容室では、切る前に必ず仕上がりを説明する。今日は「かわいくする」とも「扱いやすくする」とも言えず、芙美は鏡の右端だけを指した。妹も同じ場所へ小さくうなずいた。
「五ミリって、このくらい?」
「三ミリ」
「さっき五って言った」
「切りすぎるから」
昔からそうだった。妹は美容院で短くされるのを嫌い、芙美が練習台にするときも、毎回予定より二ミリ残させた。
芙美ははさみを横に入れず、先端を縦にした。一度に切れば早いのに、一本ずつ長さを落とす。妹は鏡の中で目を閉じたり開いたりしている。
右側の髪がまぶたに触れなくなった。左右は完全にはそろわない。それでも妹は鏡を傾け、「それでいい」と言った。
芙美は最後に残った一本を指で挟み、刃を閉じた。
短い髪が白いタオルの上へ落ちた。