閉じた扉の約束
城戸凪が同棲の条件として書いたのは、一行だけだった。
〈扉が閉まっているときは、緊急時以外ノックしない〉
晃士はその紙を読み、笑った。
「同じ家にいるのに?」
二人が検討している部屋は、扉のない広いワンルームと、細い廊下に六畳間が二つ並ぶ古い二Kだった。ワンルームは天井が高く、写真では開放的に見える。二Kは昼でも暗く、台所の床がきしんだ。
晃士は、いつでも話せる生活を想像していた。凪も、帰宅して「ただいま」と言える相手がいるのは嬉しい。
それでも凪には、一人になる時間が必要だった。機嫌が悪いのでも、嫌いになったのでもなく、言葉を使わずに戻る時間。今までは自分の部屋に帰れば済んだ。同棲すれば、その沈黙を相手の前で選ばなければならない。
二十九歳なら、もっと器用に説明できるはずだと思う。閉じこもる条件など出せば、共同生活を拒んでいるようにも見える。
不動産会社から、二件の内見確認が届いた。ワンルームには鍵が一本、二Kには玄関鍵のほか、各部屋の古い内鍵がついているという。
凪は一回だけ晃士へ電話した。
「二Kなら一緒に住みたい。ワンルームなら住まない。閉じた扉を、拒絶だと思わないでほしい」
晃士はしばらく黙り、「俺が寂しくても?」と訊いた。
「寂しいって言っていい。でも、開けさせないで」
翌日、二人は二Kを内見した。晃士はきしむ床を嫌そうに踏み、凪は奥の部屋の扉を一度閉めた。
外から音はほとんど聞こえなかった。
内見の帰り、晃士はホームセンターで二枚の小さな札を買った。〈話せます〉と〈一人です〉。凪は少し子どもっぽいと思い、それでも受け取った。札があれば誤解しないわけではない。閉じられた側が傷つかずに済むわけでもない。それでも、傷ついたことと扉を開ける権利を分ける目印にはなる。
凪は申込書へ署名した。扉を閉じたまま戻れなくなる日も、晃士が我慢できなくなる日もあるだろう。それでも開け放つことを愛情の証明にせず、閉じる責任ごと暮らすと決めた。