閉店十二分前の付箋

ブックカフェの閉店まで、あと十二分だった。

花房千紘は、小宮山聡志から一冊の文庫本を返された。表紙は擦れ、ページの角には千紘が付けた小さな折り目が残っている。彼が今夜、海外赴任へ発つ前に返したいと言った本だった。二人は月に一冊ずつ本を交換してきたが、千紘が貸すのは筋書きの安全な作品ばかりで、この一冊だけが例外だった。

「どうだった?」と聞きかけて、千紘は口を閉じた。

「感想はいらないから」

千紘は好きな人へ本を貸すくせに、読み終えた感想を聞かなかった。どの登場人物を嫌い、どの台詞で泣いたかを知られると、自分の内側まで採点される気がした。笑われたくない場面ほど、貸す前に付箋を剥がし、好きな台詞をなかったことにした。

三年前、当時の恋人に一番好きな小説を貸した。相手は千紘が線を引いた箇所を音読し、「こういう青臭いこと、本気で信じてるの」と笑った。別れたあとも、その一文を読むたび、自分の感情が幼稚だと責められている気がした。

聡志は返した本の上へ、付箋を一枚置いた。

「感想、書いてきた」

「感想はいらないって言ったよね」

「だから、読まなくていい。捨ててもいい」

店員がラストオーダーの札を裏返す。聡志の空港行き電車まで二十五分だった。

千紘は付箋を伏せたまま、表紙を撫でた。聡志は急かさず、冷めたコーヒーを飲む。店内では返却された本を棚へ戻す音が続き、二人のテーブルだけが閉店に取り残されていた。読まなければ傷つかない。けれど、知られないまま離れることも、同じくらい怖かった。

千紘は付箋を開いた。

〈主人公が「帰る場所は人だ」と気づくところで、千紘を思い出した〉

たった一行だった。評価ではなく、彼の中に自分がいた証拠だった。

「感想はいらない、じゃなくて、あなたの感想だけ聞きたい」

千紘は鞄から、同じ作者のもう一冊を出した。最初のページに自分の住所を書き、返却期限の欄は空白にする。聡志のスーツケースへ入れ、閉店のベルが鳴っても取り戻さなかった。