閉店後の待ち合わせ

「閉店後は、お客様ではありません」

佐原夏帆は、書店員の柊原聡志に初めて言われた日から、その言葉を少しだけ特別に受け取っていた。

仕事帰りに寄る小さな書店。閉店時刻を過ぎても本を選びきれない夏帆へ、聡志は急かさず、レジを締めたあと駅まで歩いた。けれど店を出れば会話は本の話だけで、駅では「またご来店ください」と別れる。店員と常連客。それ以上を望めば、行きつけの場所まで失う気がした。

ビルの建て替えで、店はその夜閉店する。夏帆は最後の客として文庫を一冊買い、シャッターが下りるまで店内に残った。

「長いあいだ、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「次のお店、決まってるんですか」

「まだです」

終電まで十二分。二人は段ボールの積まれた店を出て、いつもの道を歩いた。夏帆は紙袋を抱え、本を買わなければもう会う理由がないのだと思った。

駅前で聡志が立ち止まり、エプロンのポケットから一枚の栞を出した。店名の裏に、日曜十五時、喫茶店の名前と彼の個人番号が書かれている。

「閉店後なので、店の連絡先ではありません」

夏帆は栞を本に挟まず、スマホへ番号を登録した。表示名は《書店の柊原さん》ではなく、《聡志さん》。その場で発信すると、彼のポケットが震える。

終電がホームへ入る。聡志は夏帆の紙袋を持ち、同じ電車へ乗った。本来なら二駅手前で降りるはずなのに、夏帆の駅まで行くと言う。混み合う車内で離れないよう、手まで取った。

「日曜、本を持っていったほうがいいですか」

「本がなくても来てください」

夏帆はつないだ指へ力を込める。

夏帆の駅へ着くと、聡志は紙袋を返す前に日曜の店の地図を共有した。夏帆は最後に買った文庫の余白へ、その日付だけを書き込む。本の続きではない予定が一冊目に挟まったことで、閉じた店の思い出まで終わりにはならなかった。

「閉店後は、お客様ではありません」

店を出たときだけの言葉だったはずが、その夜、本を買わなくても次に会える二人の呼び名になった。