閉館する誕生日
片野茅乃は二十八歳の誕生日に、できるだけ長い小説を借りようとした。
「今夜だけで読み切れないものを。三段組でも、上下巻でも」
宇佐美理人は銀の懐中時計を開き、文字盤を確かめた。
「閉館です」
「まだ二十分あります」
「その相談は、です」
宇佐美は時刻を告げる以外ほとんど喋らない司書で、閉館五分前になると懐中時計の蓋を鳴らす。茅乃は誕生日だと説明するつもりはなかったが、利用者カードを更新したばかりで、生年月日は画面に出ていた。
去年までは、大学時代の友人・早苗が毎年一冊、本を薦めてくれた。今年は来ない。半年前、旅行の計画を巡って喧嘩し、互いに連絡をやめたからだ。茅乃は一日中スマートフォンを伏せ、通知が来ない事実を見ないようにしていた。
「長ければ何でもいいんです」
「本に失礼です」
「司書さんって、誕生日の人にもそういう態度なんですね」
「誕生日だから本が短くなることはありません」
宇佐美は長編棚ではなく、手紙と日記の棚へ向かった。選んだのは、たった百二十ページの書簡集だった。
「短いです」
「返事を書かずに終わった手紙だけを集めた本です」
「余計つらそう」
「最後の一通だけ読んでください」
最後の手紙は、十年口を利かなかった姉へ送られたものだった。書き出しは謝罪ではなく、“まだ怒っています。でも、あなたに聞いてほしい話があります。”
茅乃は思わず笑った。許していないのに連絡してもいい、という発想がなかった。
宇佐美が懐中時計を開く。あと八分。
「図書館で電話はできません」
「分かってます」
「メッセージなら、ロビーで」
茅乃はロビーへ出た。早苗とのトーク画面を半年ぶりに開く。
『まだ怒ってる。旅行のことも、あの言い方も。でも今日、二十八になった。聞いてほしい話がある』
送信して三十秒後、既読がついた。
『私も怒ってる。あと、誕生日おめでとう。電話していい?』
通話を終えて戻ると、館内には閉館の音楽が流れていた。宇佐美は書簡集を貸出処理し、懐中時計の蓋を閉じた。
「閉館です」
「はい。今日はもう帰ります」
茅乃が本を受け取ると、宇佐美は小さく首を振った。
「図書館のことではありません。返事を待つだけだった誕生日が、です」
外へ出る。長い夜を埋める本は必要なくなった。百二十ページの続きは、明日ゆっくり読めばよかった。