隣室の製本機

深夜十一時、葵が中綴じ用ホチキスを打った瞬間、壁を三回叩かれた。

明日の即売会に出すコピー本は、あと十八冊。平日は保険会社で働き、帰宅後だけ「青い階段」という名で本を作っている。職場にも家族にも言っていない。宅配便が来る日は在宅し、廊下で箱を開ける音まで小さくした。壁の向こうの隣人にまで知られたら、もう逃げ場がない。

再びホチキスを構えたところで、玄関のチャイムが鳴った。

扉を細く開けると、隣室の女性が立っていた。葵と同じくらいの年齢で、手には薄いゴム板を抱えている。

「音、思ったより響いてます」

「すみません。すぐやめます」

床には折った紙と表紙が散らばっていた。隣人の視線が、裁ち落としの印へ向く。

葵は足で隠そうとした。

「本、作ってるんですね」

「違います。会社の資料で」

言った直後、自分でも苦しい嘘だと思った。表紙には大きく『真夜中の階段』と書いてある。

隣人は追及せず、ゴム板を差し出した。

「製本用の防振マットです。私、向こうで活版印刷をしてるので」

今度は葵が相手を見る番だった。

「壁を叩いたのは、うるさいから?」

「半分。残りは、机の脚にこれを敷けば間に合うって知らせたくて」

二人で机を少し持ち上げ、脚の下へ板を入れた。ホチキスを一度試すと、鈍い音に変わる。

「十一時半までなら起きてます。それ以降は明日にしてください」

「明日がイベントなんです」

「じゃあ折る作業だけ残して。ホチキスは今やりましょう」

隣人は骨べらまで持ってきて、表紙の折り目を整えた。作品の内容は聞かない。葵も隣室で印刷しているものを尋ねなかった。秘密を交換するのではなく、音と時間の約束だけを交換した。

十八冊目を綴じ終えると、時計は十一時二十八分だった。

翌週、葵は配送先の表札を見直した。これまではサークル名で荷物が届くたび、不在票を先に回収していた。

本名の下に小さなマグネットを貼る。

《青い階段 荷物はこちら》

隣室から印刷機の低い音が聞こえた。葵は壁を一度だけ、挨拶の強さで叩いた。