雪山の境界線
大雪の翌朝、共同通路の中央に、人の背丈ほどの雪山ができていた。
九〇二号室の鵜沼谷賢士が、自分の駐車区画と玄関前の雪をすべて、隣の稲村森緋和の前へ押し出したのだ。
緋和が通れないと伝えると、賢士はスコップを肩へ担いだ。
「空いてる場所へ寄せただけだ。雪は誰のものでもない。嫌なら自分でどかせ」
緋和は杖を使う母と暮らしていた。雪山のため、訪問看護師も玄関へ入れない。
管理人が共同の雪置き場を案内したが、賢士は「遠い」と拒み、その夜も追加の雪を積んだ。
翌朝、緋和の母を迎える介護車両が入れず、予約していた受診が延期になった。
大家を交えた話し合いで、賢士は自然に吹き溜まっただけだと言った。
「俺が置いた証拠でもあるのか」
駐車場の監視カメラには、賢士が午前四時から二時間、雪を何十回も緋和の玄関前へ運ぶ姿が映っていた。スコップで境界標を外し、雪山の下へ隠すところまで残っている。
さらに介護車両のドライブレコーダーには、賢士が運転手へ「老人なら一日くらい病院を延ばせ」と言い、車の進路へ雪を追加する場面が映っていた。
賢士は、雪かきは善意であり、作業方法まで大家に決められる筋合いはないと反論した。
自治体職員は、共用通路と避難・福祉動線を故意に塞ぐ行為は、単なる雪かきではないと説明した。外した境界標も建物設備で、修復費が必要になる。
大家は過去の記録を開いた。賢士は夏にも自転車や植木鉢を緋和側へ置き、通路を狭めて二度警告されている。今回の通行妨害と威迫を合わせ、契約を解除するという。
賢士は緋和へ言った。
「雪を全部片づければいいんだろ。退去まで求めるなんて陰湿だ」
緋和は母の受診延期票を見せた。
「片づけるべきだったのは、注意された最初の日です」
除雪業者が雪山を共同置き場へ移し、境界標を元へ戻す。費用は賢士へ請求された。
玄関から介護車両まで一本の通路が開き、大家が明渡期限を読み上げた瞬間、他人側へ押しつけた雪は消え、賢士の契約だけが境界線の外へ出された。