非常階段の春

「非常階段は、一人で使うものです」

水口結衣がそう言っても、片桐遼は毎朝ついてきた。

結衣は半年前、停止したエレベーターに一時間閉じ込められた。それ以来、七階のオフィスまで階段を使っている。誰にも事情を話していないのに、片桐はある日から「運動不足なので」と同じ扉を開けるようになった。

彼は先に上らない。結衣が息を整える踊り場では、窓の外を眺めるふりをして待つ。理由を尋ねず、同情もしない。その距離がありがたくて、結衣は追い返す台詞だけを繰り返した。

春の移転で、オフィスは十八階になった。

初出社の朝、結衣は非常階段の前で立ち尽くした。十八階を上る自信も、満員のエレベーターへ入る勇気もない。退職の二文字さえ頭をよぎる。

扉が開き、片桐が現れた。手には小さな水筒が二本。

「七階までなら、いつも通りです」

「その先は?」

「八階で休んで、九階へ行きます。十八階まで一度に考えません」

彼は何でもない予定のように言った。五階で一本目の水筒を渡し、十階で窓を開け、十五階では結衣が再び歩き出すまで黙って待った。

十七階の踊り場で、結衣の足が止まる。呼吸より、胸の奥が苦しかった。

「どうして、ここまでしてくれるんですか」

「運動不足だから、ではもう通じませんか」

「最初から通じてません」

片桐は少し笑い、上の段から手を差し出した。引っぱるためではなく、結衣が選ぶのを待つ高さに。

「十八階まで、水口さんの隣を予約したいです」

「今日だけ?」

「明日も。その次は、会社の外でも」

結衣は彼の手を取った。温かな指が絡み、最後の一階を二人で上る。十八階の扉を開けても、片桐は手を離さなかった。結衣も離さなかった。

窓の大きな新オフィスには朝日が満ちていた。

「遼さん」

初めて名前で呼ぶと、彼の握る力がわずかに強くなる。

「はい、結衣さん」

「明日も一緒に上ってください。非常階段を」

「そのあとの朝食も」

結衣はうなずいた。

非常階段は一人で使うものだと思っていた。

けれど怖さを隠すための階段は、その朝から、彼と待ち合わせる場所になった。