領収書の名前

 皆川依央は、喫茶「白墨」の最後の夜、名前のないデミタスカップを買った。

 閉店品として並ぶ器には、常連客の名字や店の紋章が細く焼きつけられていた。けれど、その一客だけは真っ白だった。取っ手の内側に小さな釉薬のむらがある以外、どこにも文字がない。

 依央の鞄には、来週提出する結婚関係の書類が入っている。相手は悪気なく、彼の名字になった依央の名前で新居の表札を注文しようとしていた。依央も笑って頷いた。職場のメール、資格証、これまで発表した記事。変更の手間を思うと胸が詰まったが、「みんなやっていること」と言えば、気持ちまで整理できる気がした。

 閉店まであと八分。店主は空いた棚を拭き、依央が差し出した白いカップを明かりへ透かした。ひびがないか、縁が歪んでいないか。文字がないことについては何も言わない。

 会計を終え、店主が領収書の宛名を尋ねた。

 依央は一瞬、来週からの名字を答えかけた。

「皆川依央でお願いします」

 店主は復唱せず、四文字を一つずつ丁寧に書いた。癖のない楷書だった。書き終えると、インクが乾くまで領収書を伏せない。白いカップは店名シールを貼らず、薄紙だけで包んだ。

 依央は自分の名前が書かれた紙を見た。珍しい名前ではない。特別な由来を誇ってきたわけでもない。それでも、誰かの手続きの都合だけで、もう決まったもののように扱われると苦しかった。

 相手との画面を開く。

「表札、まだ注文しないで。名字のこと、私が変える前提で進めずに、もう一度話したい」

 送る前に、「結婚したくないわけじゃない」と続けそうになり、やめた。今伝えたいのは否定ではなく、未決定だという事実だった。

 送信すると、店主が店の看板灯を消した。領収書の名前だけが会計台のランプに残る。

 返事はまだない。話せば揉めるかもしれないし、結論は簡単ではない。それでも依央は、白いカップを自分の名前の領収書と一緒に受け取った。

 何も書かれていない器は、空っぽなのではない。

 誰の文字を入れるか、入れないまま使うかを、まだ決められる器だった。