香を焚かない神殿
古代神殿へ入ると、ベアトはすぐ咳き込んだ。
祭壇には濃い香が焚かれている。肺の弱い彼女には、祈りどころではない。
隣を歩く魔王レムナートが指を振る。炎は消え、煙だけが窓の外へ吸い出された。
神官が顔色を変えた。
「聖なる香を消すとは!」
「彼女が苦しい」
「浄化のために必要です」
「苦しめておいて浄化と呼ぶな」
最強の魔王は神殿軍を一晩で降伏させた。敵の泣き声には振り返らない男が、ベアトの咳が止まるまで背中にも触れず、白湯だけを差し出す。
「背をさすっていいか」
「今は大丈夫です」
「分かった」
彼は手を下ろした。それだけのことが、ベアトには何より安心だった。
祭壇前で、和平の宣誓が始まる。
大神官が命じた。
「人間の巫女ベアトは、魔王への服従を否定し、神へ膝をつきなさい」
ベアトは立ったままだった。
「私は巫女ではありません。神にも魔王にも、服従の誓いはしません」
大神官の顔が歪む。
「魔王の庇護を受けながら、何も誓わぬというのか」
「私は薬草師として同行しただけです」
神官たちが彼女を膝まずかせようと近づく。
レムナートの影が祭壇全体を覆った。石像の剣が一斉に砕ける。
「一歩でも近づけば、神殿を平地にする」
大神官は震えながらも叫ぶ。
「ならば陛下から命じよ! あなたの寵愛を受ける者なら、せめてあなたへ忠誠を!」
レムナートはベアトを見る。
「ここを出たいか」
「はい。外の空気を吸いたいです」
「そうしよう」
「宣誓を放棄すれば和平は無効ですぞ!」
魔王は祭壇の和平文書を取り上げ、服従条項だけを削った。
「和平に膝は要らない。互いに立ったまま結べ」
ベアトが先に神殿を出る。レムナートは彼女の前ではなく、半歩後ろを歩いた。
扉の外で、魔王の命令が全神官へ響く。
「ベアトを巫女と呼ぶな。香を焚くな。膝を求めるな。彼女が誰にも服従しないことを、和平の第一条とする」