鳩は駅名を知らない

喉の手術をしてから、元駅員は声を失った。

三十五年、構内放送で行き先と乗り換えを案内した。

退職後も駅前へ散歩に来たが、誰かに道を聞かれると、首から下げた小さな筆談板を出すしかない。

相手が急いでいると、たいてい途中で別の人へ聞き直した。

孫から、鳩の言葉を訳す餌をもらった。

地面へまき、最後の一粒がなくなるまで、鳩が人へ付けた呼び名を聞けるという。

鳩は駅名を知らなかった。

「赤い袋、いつも急ぐ」

「片足遅い人、パン」

「高い靴、ここで泣く」

「声のない人、毎日同じ時刻」

最後の一つは自分だった。

元駅員は鳩へ尋ねた。

「私は何をしている人だ」

声が出ないので筆談板へ書き、見せた。

鳩は文字を読まず、餌をついばんだ。

「声のない人、指す」

元駅員は、駅前で道を聞かれるたび方向を指していた。

誰も最後まで案内を受け取らなくても、鳩はその手を見ていたらしい。

ある日、迷子の子どもが改札前で泣いていた。

駅員が声をかけても、母親の名も行き先も答えられない。

元駅員は翻訳餌をまいた。

鳩が集まり、口々に言った。

「黄色い帽子、上」

「同じ匂い、ガラスの向こう」

「大きい人、走る」

二階の連絡通路を見ると、黄色い鞄を持つ女性が人をかき分けていた。

元駅員は子どもの手を取り、女性を指した。

子どもが走り出す。

母親は何度も頭を下げた。

元駅員は筆談板へ、

「鳩が見つけました」

と書いた。

冗談だと思われ、女性は泣きながら笑った。

その様子を孫が見ていた。

「声がなくても、駅員みたいだね」

筆談板へ返す。

「元だ」

「鳩はそう呼んでないよ」

翌日、餌をまく。

鳩は元駅員を見て言った。

「帰る方を指す人」

駅名も職名もない。

けれど以前のどんな肩書きより気に入った。

翻訳餌がなくなったあとも、元駅員は駅前へ通った。

筆談板へ路線図を描き、困っている人へ見せる。

急ぐ人には一度だけ指し、迷う人とは改札まで歩く。

鳩は相変わらず足元を横切る。

声は聞こえない。

それでも人の名ではなく、毎日の手つきで覚えているのだと思うと、失った声の外にも自分の仕事が残っていた。