完成の二時間前
明鏡映像の箕輪田菜摘は、編集室で字幕と音声のずれを直すアシスタントだった。
決算会議では、企業スポンサーから受け取る制作料三億円が売上に計上されていた。三月三十一日午後三時二十分、完成映像の検収書にスポンサーが電子署名したという。
「納品は完了しています」
制作統括が言った。
菜摘は会議室の後ろから声を出した。最終書き出しの間、編集室の誰も席を立てなかった。残り時間の表示が一秒ずつ減るのを見ながら、年度内には間に合わないと全員が知っていた。
「完成したのは、午後五時四十二分です」
制作統括は振り返りもしなかった。
「最終書き出しの時刻と、内容の完成時刻は違う」
「検収書には、納品ファイルの識別番号があります」
菜摘は編集システムの履歴を映した。最終マスターのファイルは午後五時四十二分に生成され、その瞬間に固有のハッシュ値が付く。検収書には同じハッシュ値が記載されていた。
「午後三時二十分の書類に、二時間二十二分後に生まれた番号が書かれています」
菜摘が時刻を読み上げるたび、制作統括の手元のペンが止まり、また動いた。
社長が身を乗り出した。
「署名だけ先にもらい、番号を後で追記したのでは?」
「電子署名後に本文を変えれば、署名は無効表示になります」
菜摘は監査証跡を開いた。検収書PDFが作成されたのは午後六時十分。そこへ、スポンサーが以前別案件で使った署名画像が貼られていた。電子署名と呼ばれていたものは、画像にすぎない。
制作統括が口を挟んだ。
「先方は内容を了承していた。形式の違いだ」
「午後三時二十分の時点では、ナレーションが二分欠けていました」
菜摘は修正履歴を示した。スポンサーが契約で指定した完全版は、その後にしか存在しない。
三億円を外せば、明鏡映像は赤字だった。
社長は検収書の署名画像を見つめ、やがて承認印を置いた。押すためではなく、菜摘の持ってきた原本が動かないよう重しにするためだった。
「完成前に検収された作品は、売上にもできない」
議長が決裁画面を閉じた。
「三億円の計上を止める」