「帰る」が指す座標

御門キリは魔王の門前で、チャット欄へ《ログアウト》と打った。

送信された文字は、《帰る》へ変わった。

この世界では「ログアウト」という語だけが自動的に「帰る」へ置換される。事故直後からの仕様で、運営への問い合わせも作戦会議も、すべて曖昧になった。

「帰る方法を知ってるか」

キリが門番NPCへ尋ねると、門番は北を指した。

別の町で同じ言葉を使うと、宿屋の女将も北を指す。砂漠の盗賊も、海底の人魚も同じだった。《帰る》は単なる言い換えではなく、どこかの座標を示す命令語になっている。

キリは戦闘を捨て、北へ進み続けた。仲間は魔王討伐が先だと反対したが、チャットで《ログアウト》と打つたび、ミニマップに一瞬だけ細い矢印が出る。

北の果てには、何もない雪原があった。

中央に小さな立札。

《音声安全フィルター》

特定語句を、接続者が最も安心できる概念へ置換します。

ログアウトという言葉が危険だったのではない。現実の救助員が何度も「ログアウトさせる」と叫び、そのたび接続者の脳波が急激に乱れた。強制切断への恐怖から、言葉自体がパニックを起こす引き金になっていた。

システムはそれを《帰る》へ変えた。さらに、安心の記憶が最も強い方向を示し続けた。

キリの北には、子供の頃に住んだ雪国の家があった。もう取り壊されている。だが立札の下を掘ると、木製の玄関扉が現れた。ゲームの家ではない。記憶の中の家だ。

仲間たちがそれぞれ《ログアウト》と打つ。矢印は別々の方角を指した。海、町、山、誰かのいる場所。

「出口は一つじゃなかったんだ」

キリが玄関扉を開けると、母の声ではなく、現実の看護師の声がした。

雪原に集まった仲間たちの矢印は、互いに違う方角を示しながら、どれも途中で交差していた。帰る場所は建物ではない。誰かに待たれているという記憶が作る座標だった。キリは初めて、出口を奪い合う必要がないと知った。

《安全語への置換により、帰還時パニックが許容値を下回りました》

《禁止語句“ログアウト”を解除します》

《あなたが探していた座標の名称を表示――帰る場所》