あひる印の落とし物

本田里帆が返却本から見つけたのは、黄色いクレヨンで描かれた食卓の絵だった。

椅子が四脚、皿が四枚。けれど人は誰もいない。裏には、震えた字で“まってる”とある。

「これ、子どもの助けを求める絵じゃないでしょうか」

荒垣柊子は、落とし物票にゴム印を押した。丸いあひるが傘を差している。

「落とし物です」

「でも、“待ってる”って」

「落とし物です。意味を決めるのは拾った人ではありません」

荒垣は無表情で、絵を透明な袋に入れた。里帆は保育園で働いている。子どもの絵に表れる小さな変化を見逃さないよう教わってきた。そのせいか、空の椅子が気になって仕方がない。

「借りていたのは料理の絵本です。誰のものか分かりますよね」

「利用記録は教えられません」

「確認だけでも」

「します。ただし、あなたの解釈は伝えません」

冷たい。けれど荒垣は、落とし主へ連絡する手続きをすぐ始めた。絵本の間に挟まっていた場所、紙の折れ方、クレヨンが他のページへ移っていないことまで記録する。

「どうしてあひるの印なんですか」

「落とし物が雨に濡れず帰れるように」

「意外とかわいい理由」

「業務上の識別です」

翌日、里帆が同じ図書館へ寄ると、カウンターの前に小さな男の子と祖母らしい女性がいた。男の子は絵を受け取り、胸に抱いた。

「カレー、できるまで待ってたの」と彼は言った。「みんなが買い物から帰るの」

裏の“まってる”は、家族を待つ食卓ではなく、鍋を待つ椅子だった。女性が何度も頭を下げる。里帆は安堵すると同時に、自分が勝手に悲しい物語を描いたことを恥じた。

荒垣は何も責めず、あひる印の票を外した。

「落とし物でした」

「はい」

「気にしたことまで、間違いではありません」

数日後、返却台に里帆宛ての封筒が置かれていた。男の子が荒垣に託したという。中には、人でいっぱいの食卓と、端に立つ黄色いあひるが描かれていた。

“ひろってくれてありがとう”

里帆が笑うと、荒垣は新しい落とし物票にあひるを押した。

「これは落とし物じゃないですよね」

「いいえ」

荒垣は封筒を里帆へ渡す。

「あなたが落としかけた安心を、返すものです」