いってらっしゃいを言う家

大槻柚香の家は、毎朝やさしく「おかえり」と言った。

玄関の灯りがつき、湯沸かし器が動き、冬には廊下まで暖かくなる。ところが柚香が海外赴任の辞令を受け、引っ越し箱を作った日から、家は玄関を開けなくなった。

鍵は回るのに扉が動かない。窓から出ようとすれば雨戸が閉じる。

〈鍵守不動産〉の鍵守高良は、深緑のベストへ何十本もの鍵を下げていた。歩くたび、金属音が小さく重なる。

「住まいは、味方です」

「味方が監禁しますか」

「過保護な味方は、します」

高良は一本ずつ鍵を試した。家はどれも受けつけず、内側から「おかえり」を繰り返す。

柚香は赴任を断る理由を探し始めていた。初めて一人で暮らした家で、熱を出した夜も、失恋した夜も、玄関だけは同じ明るさだった。置いていけば、恩知らずになる気がした。

「売らずに残せば、出してくれますか」

「家賃や所有権で納得する怪異なら、当社は楽です」

高良は鍵束を外し、玄関の床へ座った。

「この家は、あなたが帰るたび褒められたと思っています。出ていくことを、帰ってこない罰だと誤解している」

「どう説明すれば?」

「行き先を言う。留守の世話を決める。そして、帰るかどうかを約束しない」

最後の一つが難しかった。必ず戻ると言えば、家は安心するだろう。けれど三年後の自分がどこにいたいかは、柚香にも分からない。

高良は黙って、月一回の換気と点検を行う管理契約を作った。料金は相場より安い。理由を尋ねると、「鍵が多い家は、こちらも練習になります」とだけ言った。

柚香は玄関へ向き直った。

「仕事で海の向こうへ行きます。高良さんが窓を開けてくれます。戻るかもしれないし、売るかもしれない。でも、ここで助かったことは忘れません」

家が低く軋んだ。何度も「おかえり」と言いかけ、言葉を探すように灯りが明滅する。

高良が鍵束から、何の刻印もない一本を選んだ。

「住まいは、味方です」

「だったら、開けて」

柚香が言うと、高良はその鍵を回した。

扉がゆっくり外へ開く。朝の風が入り、家は初めて別の言葉を発した。

――いってらっしゃい。

高良は何十本もの鍵を鳴らし、柚香の荷物を外へ運ぶ。

「住まいは、味方です」

今度の言葉は、家をかばうものではなかった。

「味方なら、帰る場所である前に、出ていく扉でなければなりません」