なかったことにしない
屋上喫煙所の施錠まで、あと十七分だった。
奈津実は煙草を吸わないのに、送別会を抜けた湊人を追ってきた。彼は明日から名古屋支社へ移る。
「これ、返す」
差し出されたのは、小さな銀のイヤリングだった。
「どこにあったの」
「去年の研修旅行。ホテルの床」
一年前、二人は一度だけ同じ部屋で朝を迎えた。奈津実は怖くなり、出勤前に言った。〈なかったことにしよう〉。それから湊人は、完璧な同僚に戻った。
好きだと言えない理由は一つ。自分から切り捨てた夜を、異動が決まった途端に拾い直せば、彼の傷を都合よく開くことになる。
翌週から、湊人はメールの宛名を必ず〈奈津実さん〉に変えた。二人で担当していた客先にも一人で行き、飲み会では向かいの席を避けた。奈津実は望んだ通りの距離を手に入れたのに、彼がほかの同僚へ笑うたび、胸の奥が狭くなった。あの夜の記憶より、翌朝の自分の言葉のほうが消えなかった。イヤリングの片方は、なくしたものとして同じ箱に空席を残していた。屋上の金網には送別会の店の明かりが滲み、戻ればまた、何もなかった顔で拍手をしなければならない。
「まだ持ってたんだ」
「返す機会がなかった」
「なかったことにしたから?」
「奈津実がそう言った」
屋上の時計は九時四十六分。送別会の店も十時で閉まる。
「忘れた?」
「何を」
「私が言ったこと」
「忘れてほしいの?」
「なかったことにして」
二度目を口にした瞬間、湊人がイヤリングを握り直した。
「分かった」
その一言が、去年より痛かった。
奈津実は彼の手からイヤリングを取り、鏡も見ずに左耳へつけた。片方しかない銀が、夜風で冷える。
「なかったことにしたいのは、あの夜じゃない」
三度目だけ、文の続きを変えた。
「怖くて、先に捨てたふりをした私の言葉」
施錠を知らせるブザーが鳴る。
二人で階段を下りながら、奈津実は携帯の連絡先を開いた。〈営業二課・湊人〉から部署名を消し、名前だけを残した。
送信しなかったメッセージは消さず、そのまま保存した。