ゼロを一つ足した声

銀行コールセンターの音声データ提供会議で、雁ヶ音静香は通話品質を確認する下請け会社のリーダーとして、AI学習用録音の件数を照合していた。契約書には「研究利用へ同意した三千通話」とある。提供料は七千万円だった。

静香は請求明細を見て、指でゼロを隠した。

「納品数は三万件です」

銀行の企画部長は、短い音声断片へ分割したため件数が増えたと説明した。

しかしファイルは一件ずつ完全な通話で、平均七分。氏名、口座番号、住所、振込先、暗証に関する質問まで聞き取れる。三千人分を十断片にしたのではなく、三万人の通話だった。

静香は同意記録を開いた。同意者は三千二件。残る二万六千九百九十八件には同意フラグがない。企画部長の端末で、抽出条件の「consent=1」が削除されていた。変更時刻は前夜午後十一時九分、理由欄は「学習量不足」。

企画部長は、顧客名をAI会社が聞くことはないと言った。

静香は納品済み音声の一つを再生した。冒頭で顧客がフルネームを名乗り、担当者が口座末尾四桁を復唱している。匿名化処理は実行されていなかった。

法務確認印もあったが、印影は先月のシステム変更申請から複写され、横の管理番号まで同じだった。確認したとされる法務担当者は休職中である。

静香の会社は、三万件の文字起こしを受注する予定だった。上司は案件を守れと小声で言った。

「ゼロを一つ足せば、声の持ち主も十倍になります」

AI会社の試験結果には、顧客名と口座末尾を正しく文字起こしできた割合が成果として記載されていた。匿名化されていないからこそ精度を測れたのだ。静香は、三万人の秘密が学習性能の数値へ変えられていると委員へ示した。

同意録音は管理番号三千二まで連続し、その次は存在しなかった。三千三件目以降に同意音声はなく、企画部長も代替記録を示せなかった。

銀行頭取代理が七千万円の承認書を閉じ、AI会社へ利用停止を通知した。三千件の同意に足された一つのゼロが、三万人の声を決裁欄から押し戻した。