ハルが選ばなかった人

 ぼくの名前はハル。ここへ来て四十三回眠った。人の言葉は全部分からないけれど、声の硬さと、手の速さは分かる。怖い手は、触る前から空気を細くする。

 針生美礼は、入ってきたときから甘い香水の匂いがした。しゃがまずにスマートフォンを向ける。

「この子、写真より毛並みが地味ね。もっと白い犬はいないの?」

 御厨杏は、ここが保護犬の譲渡施設で、犬種や見た目だけでなく相性を確かめる場所だと説明した。今日の面談後には、飼育環境と家族全員の同意も確認する。

「客に説教しないで。寄付もするんだから」

 美礼はぼくの首輪をつかみ、自分の足元へ引いた。リードがぴんと張る。ぼくが座ると、「撮影中くらい立ちなさい」と靴先で床を鳴らした。

 杏がリードの持ち方を直そうとすると、美礼は手を払った。

「店員は黙って。フォロワーが二十万人いるの。譲渡されたら、この施設も宣伝してあげる」

 隣の部屋では、小さな男の子が別の犬に背中を向けて座っていた。怖がらせないよう、犬が近づくのを待っている。母親は散歩時間を書いた紙を何度も読み、父親は窓の柵の高さを杏へ質問していた。ぼくはその静かな匂いが好きだった。

 美礼は説明を最後まで聞かず、申込書へ大きく丸をつけた。飼育経験の欄だけは空白のままだった。

 留守番時間は「未定」。散歩は「撮影時」。医療費の欄には「高ければ施設負担」と書く。

「再生数が伸びなかったら、別の子と交換できる?」

 杏の声が、少しだけ低くなった。

「犬は商品ではありません」

「でも選ぶのは客でしょう?」

 面談の最後、杏はぼくのリードを床へ置いた。譲渡前には、犬が自分から近づけるかも見る。

 美礼が指を鳴らす。

「ハル、来なさい。おやつも高いのを買ってあげる」

 ぼくは匂いを嗅ぎ、反対側へ歩いた。隣室の男の子の前で伏せると、その子はすぐには触らず、杏を見て許可を待った。

 美礼は机を叩いた。

「犬に決めさせるの? 客を何だと思ってるの」

 杏は申込書に赤い線を引いた。

「譲渡審査、不合格です」