ペンギンは拍手を待たない

 切通理人は、水族館でペンギンの飼育を担当している。

 餌の量、体重、羽の状態。毎朝一羽ずつ確認し、昼の解説では来館者へ個性を紹介する。

 けれど最近は、上司から動画の再生数やイベントの集客も聞かれるようになった。

「もっと映える動きを引き出せないかな」

 そう言われるたび、理人はペンギンたちへ申し訳なくなった。

 中でも拍手という雌は、愛想がない。

 名前を呼んでも横を向き、カメラを向けると岩陰へ入る。翼をぱたぱたさせた瞬間だけ、理人の心へ声が届いた。

『魚』

「さっき食べた」

 ぱたぱた。

『もう一匹』

「体重管理がある」

 ぱた。

『けち』

 短いが、会話は成立していた。

 休日イベントの日、客は思ったより少なかった。

 雨で交通が乱れ、用意した席が半分空いている。理人はいつもより明るい声で解説したが、拍手は水へ入らず、岩の上で背を向けたまま。

「今日は頼むよ」

 小声で言うと、翼が一度動いた。

『何を』

「少し泳いでくれたら、みんな喜ぶ」

『腹が減っていないのに、魚を追うのか』

「仕事なんだ」

『私はペンギンだ』

 理人は言葉を失った。

 そのとき、最前列の幼い子どもが、拍手の背中を指して言った。

「じっとしてるのもかわいい」

 隣の母親が笑う。

 ほかの客も、岩の上で羽を乾かす姿を静かに見ていた。

 理人は予定していた演出をやめた。

「拍手は今、泳ぐ気分ではないようです。ペンギンにも、何もしない時間があります」

 そう説明すると、客席から小さな笑いが起きた。

 拍手は翼を一度だけ広げた。

『よし』

 イベント後、理人は休憩室で遅い昼食を食べた。

 冷めかけたおにぎりと、熱い珈琲。窓の向こうで拍手が水へ飛び込み、誰も見ていないところで見事に泳いでいる。

「今やるんだ」

 ぱたぱた。

『今、やりたい』

 理人は笑った。

 動画には撮らなかった。代わりに、その日の飼育日誌へ〈午後、よく泳ぐ。機嫌良好〉とだけ書いた。

 閉館後、餌の匂いと海水の塩気が残る通路を歩く。

 拍手は岩の上へ戻り、理人を見ると翼を二度動かした。

『帰れ』

「命令?」

『休め』

 それ以上は言わない。

 理人は照明を落とし、出口へ向かった。

 背後で水音が一つ響く。拍手のない静かな館内に、その音だけが温かく残った。