マグカップを伏せる
宇佐美透子は一日だけの外出で、会社へマグカップを返しに行った。
白地に青い線の入った、何の変哲もないカップ。透子が入院する朝、同僚のデスクから借りたまま、鞄へ入れて持ち帰っていた。自分のカップは給湯室で割れ、会議前にコーヒーが必要だったのだ。あの日は午後から検査へ行き、そのまま会社へ戻らなかった。
同僚は「百均のだから捨てていい」とメッセージを送ってきた。透子も一度はごみ袋へ入れた。しかし青い線が見えて、また出した。高いものではないからこそ、借りた形のまま返したかった。
会社は土曜で、受付に警備員しかいない。透子の社員証は休職手続きで無効になっているため、同僚に一階まで来てもらう約束だった。外出許可の目的欄には「私物返却」と書いた。私物ではないが、説明するほどの違いでもない。
出る前に自宅でカップを洗った。底の茶渋が取れず、重曹を溶かした湯へ二十分浸けた。青い線の近くに小さな傷があり、スポンジを強く当てると広がりそうだった。柔らかい布で水気を拭き、新聞紙ではなく白いタオルへ包む。
会社のロビーには、平日なら列ができる入館ゲートが閉じていた。同僚は部屋着に近い格好で現れ、紙袋を見て眉を上げた。
「本当にそれだけ返しに来たの」
「それだけ」
「送料のほうが安かったんじゃない」
透子は答えず、タオルを開いた。同僚はカップを受け取らず、「給湯室に置いて」と仮入館証を渡した。透子が以前使っていた階まで、一緒にエレベーターへ乗る。
週末のオフィスは空調が止まり、複合機の待機灯だけが光っていた。自分の机は段ボール箱が置かれ、名札が外されている。透子はそこへ寄らず、給湯室へ入った。
水切り棚には、名前を書いたカップが十個ほど伏せられていた。借りたカップの底には、油性ペンで同僚の名字の最初の一文字が書いてある。洗っても消えなかった。
透子は乾いた布で底をもう一度拭き、隣のカップと取っ手の向きをそろえた。青い線が棚の奥へ向くよう、白いカップを伏せた。