一番静かな誕生日
六十二歳の誕生日を、史生は誰にも知らせなかった。
妻を見送り、息子たちは遠くに住み、会社では誕生日欄を非公開にしている。祝われたいわけではない。ただ、何もない一日がどんな味か確かめたかった。
夕方、帰宅前に喫茶店へ入った。常連ではない。木の扉に惹かれただけだった。
注文したのはブレンドとチーズケーキ。誕生日だからケーキを選んだことを、店員の杏里は知らない。
白い皿に細い一切れが載ってきた。蝋燭も文字もない。表面には焼き色がつき、横に生クリームがひと匙ある。
史生はフォークを入れた。しっとりした生地から、レモンの香りがした。コーヒーの苦みと交互に味わうと、子どもの頃、母が作った焦げたケーキを思い出した。
店内にはほかに客が二人いた。編み物をする女性と、居眠りする学生。誰も史生を見ない。スピーカーからピアノ曲が小さく流れていた。
半分食べたところで、杏里が水を足しに来た。
「お味、どうですか」
「いい誕生日です」
言ってから、しまったと思った。
杏里は目を丸くしたが、大きな声を出さなかった。厨房へ戻り、しばらくして小皿を一枚置いた。薄いオレンジピールが二本。
「店からです。歌は、なしで」
「助かります」
砂糖をまとった皮は、噛むとほろ苦く、最後に柑橘の香りが広がった。
会計を済ませ、史生が扉を開けると、背中へ「おめでとうございます」と杏里の声が届いた。店内の二人には聞こえないくらいの大きさだった。
外はもう暗い。史生はポケットの中で家の鍵を握った。一人で帰る道は変わらない。それでも吐く息には、コーヒーとオレンジの香りが少し混じっていた。
家に着くと、息子から遅い電話があった。「今日だったよね」と自信なさそうに言う。史生は責めず、店で食べたケーキの話をした。来年は一緒に行こうと約束して電話を切る。静かな誕生日は、最後まで静かなまま、ほんの少しだけ翌年へ続いた。