三〇七号室のスターチス
海辺の小さな旅館で働く江波見伶は、毎週金曜、三〇七号室の鍵箱に紫のスターチスを見つけた。
三〇七号室は配管工事で休止中だ。誰も鍵を借りないのに、乾いた花だけが予約カードに結ばれている。送り主の名はない。乾いた花なのに、触れると潮風を閉じ込めたような音がした。
工事で客室が一つ減り、旅館は週末も空室を抱えていた。伶は花を捨てず、帳場の壁へ一本ずつ並べた。紫の列が伸びるほど、不思議なことに予約表の空白も少しずつ埋まっていった。
候補は、休止前に結婚式を担当した舟木、漁協の客をよく連れてくる漁師の醍醐、新人のベル係・潮田。三人とも鍵箱のある帳場へ出入りした。
伶は花に白い塩の粒がついているのを見つけた。紐は、網を束ねるときの二重の漁師結び。さらに花を結んだ予約カードには、毎週違う名前だが、すべて紹介元の欄に同じ海産組合が書かれていた。
「この花、一組泊まるたびに一本なんですね」
金曜の早朝、伶が港へ行くと、醍醐は干したスターチスを網小屋の梁から下ろしていた。
去年、醍醐は三〇七号室を母親の誕生日に予約した。だが前日、母親の手術が急に決まり、旅行は中止になった。本来なら全額の取消料が必要だった。伶は事情を聞き、支配人に掛け合って日程変更扱いにした。
手術後、母親は長い移動が難しくなり、結局宿泊できなかった。醍醐は返金を受け取ったままなのが心苦しく、漁協の仲間へ旅館を勧めた。一組予約が入るたび、母親が育てたスターチスを一本置いた。
「名乗ったら、あんたはまた割り引くだろう。恩返しを安くされたら困る」
休止中の三〇七号室を選んだのは、伶だけが最初の予約を覚えていると思ったからだった。
その週、工事が終わり、三〇七号室には醍醐の母親が泊まった。遠出はできなくても、港から旅館までなら来られるようになったのだ。
朝食後、伶は母親から貝の味噌汁を一椀もらった。湯気の向こうで紫の花が揺れる。伶は一口すすった。
「今度は、ご本人の予約で満室ですね」