三時十七分の通知
卒業式の日、郁人は午後三時十七分まで音楽室に残った。
二年前、奈緒が転校した時刻だった。
最後に二人で弾いた連弾は、途中で終わった。迎えの車が早く着き、奈緒は右手の旋律を残したまま立ち上がった。
「卒業式の日、三時十七分に続きを送る」
そう言って、彼女は海の向こうの町へ引っ越した。
最初の一年は毎週連絡した。次の一年は月に一度になった。三年目には、誕生日に短いメッセージを交わすだけだった。
約束を覚えているとは思えなかった。
式後、同級生たちはカラオケへ向かった。郁人は「忘れ物」と嘘をつき、音楽室へ戻った。
古いピアノの前に座る。窓の外では、部活動の後輩が卒業生を見送っている。校門の歓声も、ここでは遠い。
三時十六分。
郁人はスマートフォンを譜面台へ置いた。
三時十七分。
通知音が鳴った。
奈緒から、音声ファイルが一つ届いた。題名は「続き」。
再生すると、二年前に途切れた右手の旋律が流れた。少しテンポが速く、ところどころ間違えている。背景には知らない町の車の音と、誰かの笑い声。
最後に奈緒の声が入っていた。
「そっちの左手、まだ覚えてる?」
郁人はピアノへ手を置いた。
音声を最初から流し、自分の左手を重ねる。二年の空白を挟んだ連弾は、何度もずれた。奈緒の録音は待ってくれない。郁人は笑いながら必死で追った。
曲の終わり、録音には四小節分の沈黙があった。
郁人はそこで、昔は弾けなかった即興を加えた。卒業式で歌った校歌の一節を、そっと混ぜた。
弾き終えると、すぐに録音して送り返した。
返信は一分後だった。
――遅い。
――二年待った。
――私も。
――次は、生で。
郁人は画面を見つめた。約束が昔の形のまま戻るわけではないことは、わかっていた。声も、演奏も、二人とも変わっている。
それでも、途切れた場所からしか始められない曲がある。
三時二十一分、郁人は音楽室の蓋を閉じた。
廊下へ出ると、もう誰もいなかった。けれどポケットの中では、二つの町で弾いた一曲が、何度でも最初から再生できた。