乾杯前の送信ボタン

乾杯の前、史緒は昇進回答フォームを開いた。

課長職への打診を受けてから二週間、選択欄は「承諾」「辞退」の二つだけだった。今日が期限だった。

友人・喜和の結婚式で、史緒は新婦側の上司たちと同じテーブルになった。名刺交換のあと、年上の女性が笑った。

「二十代は仕事を選べるけど、三十代は生活に選ばされるわよ」

悪気のない助言だった。史緒は曖昧に笑い、ナプキンを膝へ置いた。

課長になれば、部下を持つ。残業は増える。転勤の可能性もある。恋人はいないが、これからできたとき、仕事が障害になるかもしれない。母からは「そんなに急いで偉くならなくても」と言われた。

一方、辞退すれば今の専門職を続けられる。好きな作業に集中でき、責任も読める。来年また機会がある保証はないが、焦って引き受ける必要もない。

スマートフォンには二件の下書きがあった。

上司へ送る〈承諾します〉

喜和へ送る予定の〈結婚おめでとう。無理しすぎないでね〉

二つを見比べ、史緒は自分が「無理」という言葉を便利に使ってきたことに気づいた。挑戦しない理由にも、疲れた人を慰める言葉にもなる。

司会者が新郎新婦の紹介を始めた。喜和は仕事を辞めず、別居婚を選んだという。会場が少しざわついたが、二人は照れたように笑っていた。

それが正しいから羨ましいのではない。説明の必要な形を、自分たちで選んだ顔が眩しかった。

史緒は承諾を押した。

送信完了の画面を見ても、達成感はなかった。むしろ、来月から名前を呼ばれる会議と、判断を誤る自分が鮮明になった。

すぐ上司から〈ありがとう。月曜に条件を詰めましょう〉と届く。

史緒は喜和への下書きを開き、「無理しすぎないでね」を消した。

〈二人が選んだ暮らし、今度ゆっくり聞かせて。私も今日、説明の必要な方を選びました〉

送ったところで、乾杯のグラスが配られた。

「お二人の未来に」

皆が立ち上がる。史緒もスマートフォンを伏せ、グラスを持った。昇進が自分に向くかは、月曜から何度も疑うだろう。

それでも辞退しなかった結果を、会社にも時代にも押しつけない。その最初の仕事だけは、もう始まっていた。