予備の地球、廃棄予定
雨庭澄枝は、海面上昇後の都市で気象予報士をしていた。少なくとも、自分ではそう信じていた。
ある日、空に保守用の文字が浮かんだ。
《気候適応モデルE-19、試験終了。七日後に削除》
澄枝たちの世界は、現実の地球で避難計画を立てるための高速シミュレーションだった。台風で失った夫も、十二年間育てた娘も、全て計算結果だという。
市政府は情報を隠そうとした。澄枝は予報番組で告知文を読み上げた。街は混乱し、店は略奪され、海岸では「現実へ出せ」と叫ぶ群衆が集まった。
現実側の研究者から通信が来た。
「あなた方の経験は保存できません。ただ、最終データは実世界の避難計画に使われます」
澄枝は怒った。
「私たちは、失敗するために生まれたのですか」
研究者は答えなかった。
澄枝は夫の墓へ行った。墓石の下に遺体はなく、死亡事故の記録があるだけだ。それでも十二年間、命日には花を置いた。作られた悲しみだから軽いとは、どうしても思えなかった。
停止まで三日。超大型台風が近づいていた。モデル上、都市は壊滅する。どうせ消えるなら避難する意味はない、と市民は言った。
澄枝も一度は放送席を離れた。だが娘が避難袋を背負って待っていた。
「本物じゃなくても、濡れるのは嫌」
その一言で戻った。
澄枝は最後の予報を出し、住民を高台へ誘導した。予定されていた避難路が浸水すると、漁師の経験を集めて別経路を作った。死亡率は予測の十分の一になった。
停止一時間前、研究者から再び通信が来た。
「あなたの避難案を、明日接近する実際の台風に採用します」
澄枝は娘と屋上に立った。雲の切れ間から、計算された朝日が見えた。
「向こうの人、助かるかな」
「分からない。でも私たちは、予報を出した」
世界は消えた。
現実の沿岸都市では、澄枝の経路で九万人が避難した。ニュースは「AIモデルが発見した新ルート」と報じ、彼女の名は出なかった。
ただ一人、通信していた研究者だけが報告書の脚注へ書いた。
《提案者:気象予報士・雨庭澄枝》
脚注は誰にも読まれなかったかもしれない。それでも澄枝の人生は、予備ではなくなった。見知らぬ朝を九万人へ渡したからだ。