二日ぶんの余白

喜多見葵は、納期を尋ねられる前に「間に合います」と答えた。

映像字幕の翻訳を始めて三年。短い納期を受けられることが、経験の浅い自分の強みだと思っていた。週末でも、深夜でも、他の仕事があっても、先に了承してから睡眠を削った。

断れば、次は別の翻訳者へ依頼される。その恐れは、仕事が増えても小さくならなかった。

十一月の午後、長く付き合っている制作会社から新しい映像が届いた。五十分のインタビューを、二日後の朝までに。葵の予定表には、すでに別案件の納品が二つ入っていた。

担当者のメールには《急ぎで恐縮ですが、ご対応可能でしょうか》とある。

葵は《可能です》まで打った。頭の中で作業時間を割る。今夜は三時まで、明日は既存案件を昼までに終え、そこから徹夜すれば間に合う。食事と風呂を省けば、少し余る。

机の横には、先週から畳んでいない洗濯物がある。窓際の鉢植えは、土が白く乾いていた。

葵はメールを消した。

《現在の予定では、二日後の朝までの納品は難しいです。二日後の夕方、または三日後の正午であれば対応できます》

送る前に、単価を下げる一文を足そうとした。遅いぶん値引きすれば、選ばれなくなる怖さを減らせる。けれど金額欄には触れなかった。

返信を待つあいだ、葵は仕事を始められなかった。断られるなら早く知りたい。受信箱を更新し続け、十分後に《三日後の正午でお願いします》と届いた。

拍子抜けするほど短い返事だった。葵が徹夜を申し出なかったことも、二日延ばしたことも、相手にはただの納期調整として処理されたらしい。自分だけが崖の端に立っていたようで、少し可笑しかった。

胸の奥がゆるんだのは一瞬だった。次には、もっと早く出せるかもしれないという考えが浮かぶ。予定より前に納品し、やる気を示したくなった。

葵はカレンダーへ、提示した納期をそのまま入力した。空いた二日を別の仕事で埋めず、既存案件の時間として残した。

それから鉢植えへ水をやった。乾いた土が黒くなり、受け皿へ少しだけ流れ出す。

二日ぶんの余白は、休日ではない。仕事は続き、納品も待っている。

ただ、その夜の葵は、明後日の自分から睡眠を借りなかった。