二本の黒い傘

屋外撮影の再開まで十分。羽根田弦は式場玄関で、辻村香耶から〈あの黒い傘を持ってきて〉と言われて待っていた。

三年前、別れ話をした夜に降った雨。香耶は弦の部屋を出るとき、玄関の黒い傘を一本持っていった。弦は、代わりに彼女の傘が残されたのだと思い、それを今日まで使わずに取っていた。梅雨が来るたび傘立ての奥で黒い布だけが乾いたまま残り、連絡しない理由より、いつか返す理由のほうを大切にしていた。傘の柄だけが、時間に触れずに残っていた。

白いドレスの香耶が、新郎と一緒に現れた。新郎の手にも、同じ形の黒い傘がある。

「二本?」

弦が差し出した傘の持ち手には、香耶の名字の頭文字。新郎が持つ傘には、弦の頭文字が小さく彫られていた。

「私、あなたのを持って出たと思ってた」と香耶が言う。

「俺も、お前のが残ったと思ってた」

実際には、雨の日に二人がよく使った同じ製品を一本ずつ買い、互いに相手の傘だと思い込んでいた。別れた夜、香耶が持ち出したのは自分の傘。弦の部屋に残ったのも弦の傘だった。ただ、二人とも暗い玄関で頭文字を逆に見ていた。

「じゃあ、三年間」

「あなたの傘を返せないから、連絡する理由が残ってると思ってた」

「俺もだ」

新郎が持ってきた傘は、香耶が荷造り中に見つけたものだった。彼が頭文字を確かめ、「これは元の持ち主へ返したほうがいい」と言ったという。

二人が手放せなかったのは相手の傘ではない。いつか返すという口実だった。

雨が弱まり、撮影係が玄関から手を振った。香耶は弦が持ってきた傘を受け取ろうとしたが、刻印を見直して首を振る。

「それは、あなたの」

新郎から渡されたもう一本は香耶のものだった。持ち手の傷も、彼女が駅の階段で落とした跡も残っている。

弦は自分の傘を開いた。香耶も自分の傘を開き、新郎と一本に入る。

三人で玄関を出たあと、弦は二人とは反対の駐車場へ歩いた。雨はほとんど止んでいたが、彼は自分の傘を閉じなかった。