交換しなかった中身
香坂理央は、二本の細い管を杯へ差し込んだ。
一方を自分の黒い杯へ、もう一方を相手の白い杯へ。卓の下に隠れていた送液ポンプを踏むと、二つの液体が交差して流れ始めた。
《杯を交換してはならない。合図後、自分の杯を飲み、生き残れば勝者となる》
「交換しただろ!」
向かいの検事が立ち上がる。
「杯は一センチも動いてない」
黒い器は理央の前、白い器は検事の前に置かれたまま。移ったのは中身だけだ。警告灯は点かない。
検事は自分の白い杯を押さえた。彼は開始前から、理央の黒い杯を見て笑っていた。毒の位置を知らされている協力者だと、理央は読んでいた。
ポンプの管には逆流防止弁があり、二つの液体は途中で混ざらず、正確に入れ替わる。理央は足で一度だけ試し、流量計が同じ数字を示すのを見届けた。
だから液体を入れ替えた。
合図。
理央は黒い杯から透明な液体を飲む。検事は白い杯の黒い液体を前に動けない。
管を抜いた穴から、黒い液体の甘い匂いが広がる。検事はそれが毒だと知っているからこそ、無害を装う演技ができなかった。知らない者より、知る者の恐怖のほうが正直だった。
『飲用を開始せよ』
「規則の趣旨は、最初に配られた中身を飲むことだ!」
「趣旨を書く欄なら、壁に余白がたくさんある」
機械の腕が検事へ杯を傾けた。彼は数秒で痙攣し、卓へ伏した。
『勝者、香坂理央』
理央は送液ポンプを足元から引き出す。これは彼女が持ち込んだものではない。卓の下に最初から取り付けられていた。観客向けの「秘密の交換」を演出する装置だったのだろう。
「主催者は、誰かがこっそり中身を入れ替える瞬間を撮りたかった。だから杯の交換だけを禁止して、中身には触れなかった」
検事の目が、悔しさで細くなる。
「なら、なぜ堂々と……」
「隠すと悪事に見える。見せれば解答になる」
勝者の扉が開いた。
理央は黒い杯を元の位置へ戻す。器の色と中身は、最後まで一致しなかった。
「容器を守る規則で、中身まで守れると思わないことね」