今夜は自分の客になる

湯守ナズナは山奥の温泉宿で、客より先に起き、客より後に眠った。

えんじ色の制服は帯の端が毛羽立ち、袖には膳を運んだ油染みが重なっていた。風呂を洗い、布団を敷き、百個の荷物を階段で運ぶ。休みの日の端末にも「団体客到着」「客室不足」「女将が呼んでいる」という緊急連絡が並んだ。客には寛ぎを売りながら、従業員には一滴も残らない宿だった。

辞職して峠を一つ越えたナズナは、古い湯治小屋を買った。そこで得た無限収納には、持ち主別の荷物部屋を作れる。入口は掌ほどの札に分けられ、遠く離れていても同じ部屋へつながった。

彼女は街道沿いの宿へ《旅の軽荷札》を貸した。旅人は不要な荷物を収納し、次の宿で受け取れる。階段を運ぶ仲居も、荷車を引く馬もいらない。利用料の一部は各宿へ、残りはナズナへ自動で入った。

湯治小屋の縁側で温泉卵を割ったとき、札が淡く光る。

《軽荷札利用:八十七件》

《生活費および小屋修繕積立額を達成》

ナズナは、積立という言葉を不思議に思った。以前は明日の体力さえ前借りしていたのに、今は未来の屋根まで少しずつ直せる。湯は冷めず、客室係を呼ぶ鈴もない。誰にも「お先に」と言わずに風呂へ入れる夜だった。

そこへ元女将から通話が来た。

「今夜、貴族の一行が百名よ。戻りなさい。帳場主任にしてあげる」

「荷物は軽荷札で運べます」

「荷物の話ではないわ。あなたは客あしらいもできるでしょう」

つまり、仕事が一つ減れば別の仕事を背負わせるつもりなのだ。役職名を変えても、階段の段数は減らない。女将の「期待している」は、いつも休憩を消す合図だった。

「私は今夜、客になります」

「どこの宿に泊まる気?」

ナズナは湯気の向こうの小さな浴槽を見た。

「自分の宿です」

元女将の説教が始まる前に、彼女は通話札を裏返した。古い制服の帯をほどき、髪を高く結ぶ。無限収納から冷えた果実水と新しい手拭いを取り出し、《入浴中・呼出不可》の札を戸に掛けた。

戸を閉めたナズナは、誰の湯加減も確かめず、自分のためだけの湯へ肩まで沈んだ。