代筆しない送別の言葉
皆川沙久は、文章が得意だと言われるたび、誰かの言葉を書くことになった。
社内表彰の推薦文、寄せ書きのまとめ、上司が読む挨拶。頼まれると断れず、本人が話したいことを聞き出し、きれいな文章へ整えた。名前は頼んだ人のものになる。沙久には「助かった」が残るので、それで十分だと思っていた。
以前、自分が書いた推薦文で同僚が表彰されたとき、沙久も嬉しかった。ただ、壇上の言葉まで自分の文章だったことを誰にも言えず、拍手をしながら胸の中が少し空いた。その感覚を、嫉妬と決めつけて隠した。
月末、異動する部長の送別会を前に、先輩が声をかけた。
「代表挨拶、私が読むんだけど、原稿作ってくれない?」
沙久は条件反射で「いつまでですか」と聞いた。明日の午前、と言われる。今夜書けば間に合う。部長との思い出を先輩から少し聞き、過去の社内報を探せば、三百字くらい作れる。
自分の机には、提出前の企画書が開いたままだった。今日もその仕上げを家へ持ち帰る予定だった。
沙久は新しい文書を開き、タイトルに《送別挨拶》と入力した。真っ白なページを見ると、いつもの言い回しがもう浮かぶ。温かなご指導、今後のご活躍。誰の口にも合う言葉だった。
カーソルを一度点滅させ、文書を閉じた。
「今回は書けません。挨拶する人の言葉でお願いします」
先輩は困った顔をした。「少し直すだけでも」と言われ、沙久はまた引き受けそうになった。
「直すのも、今回はできません」
声は小さかったが、言い直さなかった。
先輩は自席へ戻り、メモ用紙に何かを書き始めた。
沙久はその背中を見ないよう、企画書へ視線を戻した。頼みを断った埋め合わせに、先輩の仕事まで気にかけるのをやめた。沙久は嫌われたかもしれないと思った。それでも、空の文書を復元しなかった。
翌日の送別会で、先輩の挨拶は途中で詰まり、同じ言葉を二度繰り返した。部長は黙って頷いた。沙久は拍手をした。
整っていない言葉を直したくなる手を、膝の上に置く。自分の企画書だけが、今日は自分の名前で提出されていた。