兄のキータイム

御影郁弥は毎朝、兄の古いキーボードで三百字を打つ。

キーを押す長さ、次の文字までの間、間違えたときの戻り方。採用AI《継承》は、退職者の仕事の癖に最も近い候補者だけを後任にする。教育費を減らすため、空いた席には「同じ人」を入れるのが規則だった。

兄の想士は半年前、二十九歳で事故死した。勤めていた設計会社は、彼が担当していた橋梁データを扱える後任を募集している。母の治療費が必要な郁弥は応募した。

生前の兄は、郁弥の打ち方を「せっかちだ」と笑った。想士は文章の区切りで必ず一秒止まり、保存キーを二度押す。郁弥は採用練習のたび、その沈黙まで覚え込んだ。母は隣室で兄が帰ってきたような打鍵音を聞き、時々名前を呼び間違えた。

〈行動一致率 96.2%〉

最初は六十だった。兄のメールを読み、ショートカットを覚え、右の小指でエンターを強く叩く癖まで真似した。数字が上がるたび、母は喜び、郁弥は自分の打ち方を忘れた。

最終日の朝、課題は兄が途中まで残した図面の修正だった。

郁弥なら支柱を二本にする。想士は安全率を過剰に取る人で、三本にしたはずだ。

郁弥は三本目を引いた。

〈行動一致率 100.0%〉

〈採用決定〉

端末が会社用の認証へ切り替わる。

〈おかえりなさい、御影想士さん〉

「違う。郁弥だ」

音声訂正を試すと、警告が出た。

《一致率を維持するため、旧担当者の識別情報を継承します》

《訂正した場合、別人として再選考します》

母から電話が来る。

『決まった?』

「うん」

返事の前に、兄と同じ一秒の間を置いてしまった。電話の向こうで母が息を呑む。それ以上は言えなかった。

初出勤。無人受付で指を置くと、兄の社員写真が表示された。机には兄の名前が刻まれたマグカップが残り、同僚たちは画面越しに「戻ってきたみたいだ」と笑った。

雇用契約書の署名欄には、すでに〈御影想士〉と薄く印字されている。上から別の名前を書くと不一致になる。

郁弥は兄のキーボードを膝に置いた。右の小指を強く落とし、兄の名前で署名を確定した。