兄の分まで眠る

佐伯壮悟は、兄が滑落した瞬間を削除した。

冬山で二人を結んでいたロープが岩に擦れ、切れた。兄の遼一は谷へ落ち、壮悟だけが生還した。救助隊は事故だと結論づけたが、壮悟は「あのとき自分が一歩早く動いていれば」と同じ場面を繰り返し、眠れなくなった。

施術後、壮悟は兄が山で死んだ事実を知っていた。ただし、最後の三十分を思い出せない。罪悪感も悪夢も消えた。

家族は安堵した。だが春になると、壮悟は一人で山へ戻ろうとした。

「なぜ止めるんだ。事故の原因を調べたい」

母は青ざめた。以前の壮悟なら、登山靴を見るだけで吐いていた。恐怖を消したことで、危険を知る感覚まで失っていた。

壮悟は家族に隠れて入山した。兄と歩いた尾根に立っても、景色は初めて見るように美しかった。風が強まり、足元の雪が崩れた。壮悟は咄嗟に岩へ身体を伏せ、右手でロープを二重に巻いた。

覚えのない動きだった。

雪崩を避けたあと、手袋の中で指が震えた。記憶はなくても、身体はあの日の続きを生きていた。

避難小屋で、兄の古いザックを開けた。遺品として回収されたまま、家族が触れずにいたものだ。内ポケットから、防水紙が出てきた。遼一の字で短く書かれていた。

〈ロープが切れたら、俺を追うな。お前は下で母さんを支えろ。これは兄命令〉

事故の前夜、兄が冗談半分に書いたらしい。

壮悟は紙を読んでも、救われた感じがしなかった。自分を責めていた記憶そのものがないからだ。ただ、兄が最後まで自分を生かそうとしていたことだけが、新しい事実として胸に入った。

山を下りた壮悟は、登山をやめなかった。代わりに救助隊の訓練へ参加した。恐怖の記憶を持たない自分は、危険を過小評価する。だから判断を一人でせず、必ず仲間の確認を受けると決めた。

数年後、若い遭難者を救った夜、壮悟は久しぶりに兄の夢を見た。顔は出てこなかった。切れるロープもなかった。ただ、誰かが背中を押し、下山する道を指していた。

目覚めた壮悟は、初めてよく眠れたと思った。

兄の死を忘れたのではない。

死の瞬間を持たない人生で、兄が望んだ続きを選び直したのだった。