先に笑う鏡

顔の手術をしたあと、女性は鏡を見なくなった。

傷は治ったが、左の頬が以前と少し違う。

周囲は「分からない」と言った。

その言葉は、見ないようにしているという意味に聞こえた。

叔母の遺品から、小さな手鏡をもらった。

銀の縁には葡萄の模様があり、叔母は化粧のたびに使っていた。

引き出しへしまおうとした瞬間、鏡の中の自分が先に笑った。

現実の口元は動いていない。

一秒遅れて、鏡の笑顔が消えた。

それから手鏡は、女性が笑う少し前に笑った。

娘が失敗した料理を出したとき。

同僚が靴を左右逆に履いてきたとき。

傷を隠す髪型が風で崩れたとき。

鏡に先回りされるのが腹立たしくて、女性は笑うのを我慢した。

すると鏡の自分だけが、何度も一秒の笑顔を作る。

左の頬も一緒に上がり、傷が少し歪んだ。

美しいとは思えなかった。

でも、嫌いだと決めつけていた顔より、生きている顔に見えた。

ある日、娘が学校から泣いて帰った。

写真撮影で「笑い方が変」と言われたという。

娘は前歯の隙間を気にし、口を閉じていた。

女性は手鏡を娘へ渡した。

鏡の中の娘が、一秒先に笑った。

前歯の隙間が見えた。

娘は驚き、それから本当に笑った。

「鏡、変」

「叔母さんも変な人だった」

「お母さんの顔も変」

言われて、女性は思わず吹き出した。

鏡の中では、もう一秒前から二人が笑っていた。

女性は髪で傷を隠すのをやめた。

堂々と見せたいわけではない。

朝の支度に時間がかかりすぎるからだ。

職場で視線を感じる日もあった。

そんなときは手鏡を開く。

鏡の自分が先に笑えば、「次に自分も笑える」と思えた。

娘が成人すると、手鏡を欲しがった。

「もう十分使ったでしょう」

「まだ笑えない日もある」

「私だってある」

二人で取り合い、結局、週替わりで持つことにした。

叔母がなぜこの鏡を大切にしたのかは知らない。

写真の叔母はいつも口を結び、厳しい顔をしている。

もしかすると、鏡の中でだけ先に笑っていたのかもしれない。

女性は家族写真の前へ手鏡を置いた。

映った三人は、一秒だけ写真より早く笑った。

過去の顔は変えられない。

それでも次の表情を、ほんの少し先から迎えに来る物があってもよかった。