八分目を越える夜
宇賀神理緒は、祖母の家で午前零時を迎えた。
婚約者からのメッセージは、三時間前から未読のままだ。
海外支社への二年間の赴任を打診された。理緒がずっと望んでいた仕事だ。けれど婚約者は「行くなら結婚は考え直す」と言った。冗談ではない。彼は来春の式も、新居も、理緒が今の部署に残る前提で決めている。
式場の見積書には理緒の名字が変わったあとの名前まで印刷されていた。赴任を受けると、その完成した未来を自分の手で汚すように思えた。
祖母には何も話していない。ただ「近くまで来たから」と訪ねた。
祖母は根菜の味噌スープを作り、一杯だけ食卓へ置いた。味噌の香りが古い居間へ広がり、器の熱が理緒の掌へゆっくり移った。
その器には、内側に釉薬の境目がある。祖母はいつも、そこまでしかよそわない。
腹も器も八分目。人の欲は少し控えるくらいがちょうどいい。
理緒はその言葉を聞いて育った。就職先を選ぶときも、昇進を勧められたときも、自分が取りすぎないよう境目を探した。婚約者との暮らしでも、仕事の話は八分目で止めてきた。
今夜のスープは、境目を越えて縁近くまで入っていた。
祖母は向かいで編み物をし、理由を説明しない。
理緒はまず、釉薬の線まで食べた。いつもの量なら、ここで「ごちそうさま」と言うところだった。
けれど器には、まだ二割が残っている。
理緒はスプーンを置かず、線の下へ進んだ。人参も牛蒡も、祖母が不ぞろいに切ったまま沈んでいる。一口ごとに、遠慮で小さくしてきた自分の希望が戻ってくる気がした。
最後に里芋を一つだけ残した。
祖母が器をのぞく。
「全部は食べんのか」
「帰ってきたときの分」
理緒がそう答えると、祖母は笑わず、小さな保存容器へその一口を移した。蓋へ、赴任期間の終わる二年後の日付ではなく、翌朝の日付を書く。
未来を凍らせて待つのではなく、明日もう一度選べということらしい。
理緒は婚約者のメッセージを開き、赴任を受けると送った。結婚を終わらせたいわけではない。けれど結婚のために、自分を八分目へ減らすつもりもなかった。
祖母の器の釉薬は変わらない。
その夜、初めて境目を越えて食べた理緒だけが、器に合わせて小さくなるのをやめた。