共同台所の一人分
東雲川澪は、毎週火曜の夜に地域の共同台所へ行く。
料理教室ではない。利用料を払えば、広い調理台と大きな鍋を自由に使える。
一人暮らしの部屋では狭くて作りにくいものを、各自が黙々と作る場所だった。
澪はいつもスープを作る。
玉葱、人参、豆、季節の葉物。四食分を煮て、容器へ分けて持ち帰る。
自宅の台所で一人分を作ると、効率や洗い物ばかり考えてしまう。共同台所では、隣で誰かがパンをこね、向こうで漬物を刻んでいる。
会話をしなくても、料理の音が重なった。
ある火曜、澪は何も作る気がしなかった。
仕事で注意を受け、買い物をする力もなく、空の容器だけ持って台所へ来た。
管理人は事情を訊かず、
「今日は卓だけ使ってもいいですよ」
と言った。
澪は隅の椅子へ座り、皆の作業を眺めた。
包丁の音、泡立て器の音、オーブンの終了音。
自分だけ何もしていないことが気になったが、誰も咎めない。
隣で生姜を大量に刻んでいた女性が、小鍋を差し出した。
「味見してくれませんか」
鶏団子のスープだった。
澪が一口飲むと、生姜の辛さが喉から胸へ広がった。
「少し濃いです」
「水を足します」
女性は礼を言い、それ以上話さない。
向こうの男性からは、焼きたてのパンの端をもらった。
「形が悪いので」
外側は硬く、中は温かかった。
澪は何も作らず、二つの味見だけで夕飯を済ませた。
帰る前、管理人が空の容器を見た。
「成果なし?」
「今日は食べる係でした」
「大事な役です」
翌週、澪は大鍋で生姜入りの野菜スープを作った。
前の女性へ味見を頼む。
「少し薄い」
「では塩を足します」
同じやり取りをして、二人は笑った。
共同台所では、家族のように食卓を囲まない。
名前を知らない人も多い。それでも作れない日は誰かの味見をし、作れる日は一匙を渡す。
自宅へ持ち帰った容器から、生姜と野菜の温かな香りが上がった。
澪にとってそこは、一人分の暮らしを、一人きりで作らなくてもよい場所だった。
容器の蓋を閉じても、誰かの鍋から上がった湯気の温度が、掌へしばらく残っていた。