冷めない味噌汁

古い家を売る前夜、男は一人で味噌汁を作った。

かつて母が里子を何人も預かっていた家だ。

男は実の息子だったが、家に来る子どもたちを家族だと思えず、大学進学と同時に町を出た。

母が亡くなり、家は空いた。

片づけを終えた台所で、最後くらい母の味を再現しようとした。

鍋を火から下ろしても、味噌汁はいつまでも熱かった。

その家の味噌汁は、「ここが家だ」と思う人がまだ帰る途中にいる間、冷めなかった。

男は自分以外に来る人はいないと思った。

弟も妹もいない。

里子たちは皆、別の家へ移ったり、成人して連絡が途絶えたりしている。

一時間たっても湯気が消えない。

男は気味悪くなり、鍋へ蓋をした。

夜十一時、門の外で車が止まった。

四十代の女性が、大きな鞄を持って立っていた。

「間に合った」

男にはすぐ分からなかった。

女性は小学生の頃、この家で二年暮らしたという。

夜尿を隠し、母に叱られ、男とはよく喧嘩した。

ある日、何も言わず別の施設へ移った子だった。

「売るって聞いて、一度だけ台所を見たくて」

女性は言った。

男は味噌汁をよそった。

まだ舌を火傷しそうに熱い。

女性は一口飲み、

「薄い」

と笑った。

母はもっと味噌を多く入れたらしい。

二人は記憶を照らし合わせた。

男が知らなかった母の顔。

女性が知らなかった、里子が来るたび部屋を取られた息子の寂しさ。

どちらも母を優しい人としてだけ覚えてはいなかった。

「ここ、家だった?」

男が聞いた。

女性は少し考えた。

「出ていく日まで、家だと思わないようにしてた」

また捨てられるのが怖かったという。

「でも、別の場所で味噌汁を飲むたび、ここを思い出した」

女性が二杯目を飲み終えると、鍋の湯気が急に細くなった。

味噌汁は普通の温度へ冷め始めた。

家は予定どおり売った。

男と女性は、母の古い献立帳だけを半分ずつコピーした。

年に一度、かつてこの家にいた人たちへ連絡し、小さな食事会を開くようになった。

来る人は毎年違う。

名乗らず帰る人もいる。

男は味噌汁を少し濃く作る。

鍋が冷めなければ、もう一人来るのだと思い、椀を一つ増やす。

家という建物はなくなった。

それでも帰る途中の人がいる限り、食卓は冷めきらずに待つことができた。