匂いのない帰還

疫獣の喉を裂くと、ルセトの鼻から透明な血が流れた。

森を満たしていた腐臭が消える。木の洞に隠れていた村人たちが歓声を上げたが、彼にはその声しか分からなかった。

匂いがない。

彼の能力《嗅勝》は、敵に勝つたび一つの匂いを失う。その代わり、次の獲物の匂いだけは世界の果てからでも追える。問題は、匂いと結びついた記憶まで消えることだった。

一勝目で雨上がりの土を失い、初めて剣を握った日の記憶が薄れた。五勝目で焚火を失い、仲間と旅した夜を忘れた。十二勝目には、妻エヴナの髪につけた薬草の香りが分からなくなった。

それでも姿と声は覚えている、と彼女に約束した。エヴナは毎朝違う髪紐をつけ、色で自分を覚えさせるようになった。

疫獣は死んでいなかった。

裂けた喉から小さな獣が何十匹も這い出し、村人へ向かう。ルセトは匂いで本体を探した。残っている人間の記憶の匂いは、母が使っていた石鹸だけだった。清潔な灰と油の香り。その向こうに、疫獣の核がある。

「それを使えば、お母さんを忘れる」

エヴナが言う。

「村を覚えている者が残ればいい」

ルセトは最後の香りを追い、獣の腹へ腕を突き入れた。黒い核を握り潰す。

小獣たちは灰になった。

勝利。

母の顔が、石鹸の泡とともに記憶から落ちた。

夜、村へ戻る。門番の犬が激しく吠え、ルセトへ飛びかかった。何度も餌をやった犬だ。だが鼻先を近づけても、犬は彼を死人のように恐れる。

「あなた自身の匂いまでなくなったのよ」

エヴナが彼の腕を取る。

家へ入り、彼女が温かいスープを出した。湯気が上がっているはずだが何も感じない。味は分かる。それでも食卓の記憶は、匂いの抜けた絵のように平たい。

エヴナが隣へ座り、髪を肩へ乗せる。

「これは私。覚えて」

ルセトはうなずいた。

翌朝、彼女は寝台の横に血溜まりを見つけた。疫獣に裂かれた傷が夜通し開いていたのに、血の匂いがないため誰も気づかなかった。

ルセト自身さえ気づかなかった。

死体になっても、蠅は一匹も寄ってこなかった。