匿名係の名簿
櫻庭理玖巡査部長は、真鍋リナの本名が映った研修資料を閉じられなかった。
リナは違法賭博の送金経路を売る情報屋で、県警内では符号「カワセミ」とだけ呼ばれていた。昨夜、匿名通報係へ最後の電話をかけている。
――私の符号はカワセミじゃない。カワセミは、死んだ別の人。
受理員が聞き返すと、リナは早口で続けた。
――本名の名簿が研修で映ってる。ファイル名は『協力者運用・確定版』。私の住所まで、発表者ノートに入ってる。
背後でドアを蹴る音がし、通話は終わった。匿名係長は、リナが警察端末へ不正侵入した疑いがあるとして、通報を証拠化しないよう指示した。
理玖が共有サーバーを検索すると、指定されたスライド資料が見つかった。表面には符号と属性だけ。だが発表者用ノートを開くと、符号ごとの本名、住所、担当刑事、報酬額が記されている。リナの行には、誤って「カワセミ」と入力されていた。だから彼女は否定したのだ。
資料は三か月前、捜査幹部研修で投影され、出席者八十六人へ配布されていた。作成者は匿名係長。閲覧ログには、違法賭博事件の捜査対象と親族関係にある警察官も含まれている。
係長は理玖の端末を覗き込んだ。
「実名は講義後に消した。流出した証拠はない」
「今も残っています」
「内部限定だ。リナが知ったなら、担当刑事が漏らしたか、本人が侵入したんだ」
「資料を作った責任は?」
係長は声を硬くした。
「匿名制度の不備を公表すれば、全協力者の捜査が止まる。現場は二度と情報を上げなくなる。リナ一人のために、何十件を捨てる気だ」
理玖は通報の最後に残った小さな音を拡大した。リナの部屋へ入った者が紙をめくり、「カワセミ、住所一致」と読んでいる。研修資料の誤った符号まで知っていた。
制度を守るとは、失敗を隠すことではない。名簿を作った者が匿名を語り続ける方が、協力者を欺く。
理玖は資料をアクセス禁止へ変更し、全閲覧者一覧を保全した。リナの実名を黒塗りした告発書と、黒塗り前の原本を別々の封筒へ入れる。
係長が手を伸ばす前に、二つの封筒を監察官の机へ同時に置いた。