十一階給湯室の鳩会議

 人間が帰ったあとのオフィスビルでは、十一階の給湯室だけが薄く明るい。

 窓辺の鳩、角印。観葉植物に住む守宮の小灯。倉庫の隅の鼠、付箋。それから受付水槽の金魚、赤鉛筆は、夜になると水面の反射を通して会議へ参加した。

 紙コップに残った白湯の湯気と、昼間に淹れられた珈琲の香りが、彼らの会議室を満たしていた。

「企画部の若い人間が、まだ帰っていない」

 小灯が壁を指す。

 会議室には一人の社員が残り、明日の発表資料を直していた。

「昨日も最後だった」

 角印が窓硝子を嘴で叩く。

「昼は菓子一つ」

 付箋は机の下で包み紙を見つけた。

 赤鉛筆が水槽の中で口を動かす。

「なおす、なおす、なおす。どこまで直せば終わるのか」

 水の揺れが言葉になった。

 動物たちの議題は「人間を帰宅させる方法」。

 付箋がマウスの電池を隠す案を出したが、翌朝困るので却下。角印が警報器を鳴らす案は、大事件になるので即座に却下された。

「小さな理由で立たせよう」

 小灯が言った。

「立てば、腹が減っていることに気づくかもしれない」

 作戦は簡単だった。

 角印が窓を軽く叩く。社員が顔を上げる。

 次に小灯が壁から給湯室へ走り、視界の端を横切る。社員は虫かと思って立ち上がり、追ってくる。

 給湯室では付箋が、昼に落ちた即席スープの袋を床の中央へ押し出した。

「こんなところに」

 社員は袋を拾い、時計を見る。

 午後十一時四十分。

 湯を沸かし、スープをカップへ注ぐ。乾燥玉葱と胡椒の匂いが立つと、腹が大きく鳴った。

「帰ろうかな」

 誰にともなく言い、会議室へ戻る。資料を一度だけ見直し、保存してパソコンを閉じた。

 社員がエレベーターへ乗ると、動物たちは給湯室へ集まった。

「帰宅、零時前」

 角印が胸を膨らませる。

「スープ完食」

 付箋が袋を確認する。

「資料は完成したの?」

 小灯が訊く。

 赤鉛筆は水面へ小さな輪を作った。

「完成は、人間が帰ると決めた場所」

 翌朝、社員は少し早く出社した。

 昨日の資料を見て、修正箇所を一つ見つけたが、直したのはそこだけだった。発表は無事に終わり、昼休みには同僚と給湯室でスープを飲んだ。

「昨夜、守宮を見たんだ」

「このビルにいるの?」

 二人が窓辺を探すので、小灯は葉の裏へ隠れた。

 夜の会議室には、珈琲ではなく乾燥玉葱の甘い香りが残っていた。

 角印は紙コップの縁へ止まり、付箋は温かな給湯管のそばで丸くなる。赤鉛筆の水槽にも照明が一つだけ灯り、十一階全体が、仕事を終えたあとの静かな息をついた。