午前零時の暗証番号
午前零時すぎ、岩倉千代の当直端末に、空室の玄関が開いたという通知が届いた。
その部屋は翌日の内覧用で、入居者はいない。後輩が見学者へ送った一回限りの暗証番号を、同じ名前の別の応募者へ誤送信していた。利用時刻は案内した昼ではなく、深夜だった。
後輩は電話口で、「番号を間違えたのは私ですが、入った人が悪いです」と泣きそうな声を出した。管理責任者は警備会社だけを向かわせ、朝になってから処理しようと言った。
千代は入退室ログを確認した。扉は開いて三分後に閉まり、室内センサーはその後も動きを拾っている。誰かが残っている可能性がある。空室には工具と、次の入居者へ渡す契約書類も置かれていた。
「警備と警察へ連絡します。私は現地へ行きません」
一人で確認しに行くことも、後輩を向かわせることも選ばなかった。千代は遠隔で暗証番号を無効にし、共用部のカメラ映像を保全した。警備員が到着すると、室内に人はいなかったが、窓が開き、工具袋が一つ動かされていた。契約書類は施錠棚にあり、持ち出されていなかった。
誤送信を受けた応募者へ連絡すると、「空いているなら今見てもよいと思った」と答えた。千代は事実を記録し、今後の見学を断った。開いた窓から雨が入り、床が一部濡れていたため、翌朝の内覧も延期した。空室だから被害者がいないのではない。次に暮らす人の契約と、夜に呼び出される社員の安全が、そこにはすでに置かれている。
後輩には、深夜の電話で謝り続けさせなかった。
「送信ミスは報告する。でも、危険な現場へ行く罰にはしない。次に同じことが起きても、一人で確かめないで」
千代は暗証番号を予約番号と本人確認済み端末へ結びつけ、指定時間外には作動しない設定へ変えた。送信先の手入力も廃止した。
朝、責任者は当直者が現地確認できるよう規定を直すと言った。千代はその案へ同意せず、以前から準備していた退職届を開いた。
退職理由には、夜間の安全を個人の勇気で補う働き方は選ばない、と書いた。
千代は送信を押した。