半速の子守唄
音源修復を請け負う真砂谷環士は、亡母のカセットを再生するため「寝子」というアプリを使った。雑音の多い子守唄から、歌詞と歌い手の声を復元する無料ツールだった。
解析画面には、北国の《年返し唄》について短い解説が出た。眠れない子に一節歌うたび、年齢を一晩ずつ母の腹へ返す。遅く歌いすぎると、朝までに生まれる前へ戻るとされた。
警告は一つだけだった。
《再生速度を0.75倍未満にしてはいけない》
環士は二十六年前、自分を寝かせる母の声を聞いた。だが歌の後ろで、別の声が何かを数えている。通常速度では判別できない。解析には波形を引き伸ばす必要があった。
彼は速度を一度だけ、0.5倍へ下げた。
母の声が低く延び、背景の囁きが言葉になった。
「二十六、二十五、二十四……」
数字が一つ減るたび、部屋の家具が少し大きく見えた。仕事机の天板が肩の高さになり、指輪が緩み、スマートウォッチのベルトが余る。
環士は停止を押した。画面は反応せず、子守唄だけが続く。
「十、九、八……」
母の声は優しいままだった。最後の伴奏に、現在の環士の寝息が混じっている。録音日時は二十六年前なのに、今日買った空気清浄機の作動音まで入っていた。
「三、二、一」
再生が終わると、部屋は元の大きさに戻った。鏡の姿も二十六歳のまま。環士は安堵して床へ座り込み、そのまま眠った。
朝、端末の睡眠記録には異常な数値が表示されていた。
【連続睡眠】9,497日
【推定年齢】0歳
【保護者による起床操作】未実施
復元された音源の長さも変わっていた。元は四分だったはずが、再生時間は〈二十六年〉。波形の末尾には、環士が今朝起きるまでの生活音が連続していた。停止位置を動かすと、明日の寝息まで薄く表示された。
母の停止済みアカウントからメッセージが届く。
〈まだ起こしちゃだめ。今度はちゃんと生まれるまで待って〉
返信欄はなく、代わりにスマートフォンが育児モードへ切り替わった。画面の文字が大きくなり、すべての連絡先が〈保護者〉へ統合される。
寝室のスマートスピーカーが、日常的な通知音を鳴らした。
「赤ちゃんが泣いています」
環士の口から出たのは、自分の声ではなく、カセットに残っていた産声だった。