印鑑だけの午後

碧は、宅配便を受け取るだけでも化粧をした。

元恋人に、すっぴんを見られた夜がある。

「具合悪そう。せめて眉くらい描いたら?」

笑いながら言われただけだったのに、碧はそれ以降、顔を整えず人前に出られなくなった。ごみを捨てるときもマスクをし、急な来客には居留守を使った。別れたあとも、玄関の棚には眉ペンとコンシーラーが置かれている。

日曜の午後、碧は風呂上がりに髪を乾かしていた。顔には化粧水しか塗っていない。インターホンが鳴り、宅配業者の制服が画面に映った。

時間指定していた荷物だった。

碧は玄関へ行き、棚の眉ペンを取った。鏡に映った顔は、眉が薄く、頬に赤みがある。元恋人の言う通り、少し疲れて見えた。

インターホンがもう一度鳴った。

碧は眉ペンを棚へ戻した。マスクにも手を伸ばさなかった。

扉を細く開ける。

配達員は伝票を差し出し、「こちらにお願いします」と言った。碧の顔を見て何かを思ったかもしれないが、口にはしなかった。

碧は印鑑を押し、箱を受け取った。やり取りは十秒もなかった。

配達員の胸元には雨粒が残り、後ろの台車から別の荷物が覗いていた。碧が印鑑の向きを間違えると、相手は伝票を回してくれた。それだけのやり取りだった。元恋人の言葉のように顔を覗き込まれることも、具合を聞かれることもない。普通に受け取れた事実がかえって心細く、碧は扉の鍵を二度確かめた。

扉を閉めると、急に頬が熱くなった。鏡で確認し、ひどく見えなかった証拠を探したくなった。

碧は洗面所へ戻らず、箱をリビングへ運んだ。

伝票に残った朱肉の丸は少し欠けていたが、押し直さなかった。

中身は注文したタオルだった。新品の白い布を一枚取り出し、まだ湿っている髪へ巻く。

すっぴんで出たからといって、外見への不安がなくなったわけではない。次の来客にはまた眉を描くかもしれない。

それでもその午後、玄関の眉ペンは使われなかった。碧は鏡を見ず、残りのタオルを棚へしまった。