収蔵庫の白い箱
嶺川紫苑は、美術館を辞める理由を「展示室より寄付者の顔色を見る時間が長くなったから」と説明した。
水城佳乃は、その言い方が嫌いだった。寄付がなければ展示室の照明もつかない。折り合いをつけて扉を開け続けるのも仕事だと考えている。
紫苑には佳乃が妥協を仕事と呼んでいるように見えた。佳乃には紫苑が清潔な場所から批判するために去るように見えた。
退職の前日、二人は企画展の撤収をしていた。展示された女性写真家の作品は、一部の寄付者から「家族向けでない」と苦情を受け、会期途中で外された。館長は関連パンフレットも廃棄するよう指示した。
紫苑は束を抱え、収蔵庫へ向かった。佳乃が通路をふさぐ。
「未登録資料を勝手に残せない」
「捨てるの?」
「手続きが要る」
「手続きしてる間に、廃棄される」
紫苑は段ボールへ詰めようとした。佳乃はその箱を取り上げ、酸を含まない保存用の白い箱を棚から出した。
「段ボールは変色する」
二人はパンフレットを百部だけ選び、折れと汚れを確認した。紫苑は手袋を替え、佳乃は箱の角へ緩衝材を入れた。紫苑が作家名と会期を記録し、佳乃が資料番号を発行する。館長の承認欄は空白のままだったが、寄贈資料の仮受入制度なら三十日は保管できる。
「三十日後に捨てられるかも」
「その間に審査へ出す」
「通らなかったら?」
「私は残るから、もう一度出す」
紫苑はそれを勇気とは呼ばなかった。佳乃も、辞める紫苑を臆病とは呼ばなかった。
白い箱の底へ薄紙を敷き、パンフレットを平らに重ねる。一冊だけ、外された展示位置の写真を添えた。何が起きたかを後から説明できるようにするためだった。
館長が収蔵庫へ来たとき、佳乃は仮受入票を差し出し、紫苑は資料の来歴を書いたメモを渡した。二人の名前が別々の欄にあったため、どちらか一人の独断にはできなかった。
閉館音楽が流れる。紫苑が箱の蓋を持ち、佳乃が側面を押さえた。蓋は音もなく閉まり、廃棄予定の束は資料番号を持つものになった。